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問題解決の方法について

あるものAに問題があるとしよう。その問題を解決するためには、理想的なAの状態という目標を設定し、その目標に向かって努力するというのが、普通のやり方だろう。一般的には、問題解決のためには、時間と労力が必要である、と考えられている。だから、一生懸命努力することに価値があり、それができる人は偉いと思われているのである。

けれども、いくら努力しても、世の中に山積する諸問題は一向に解決する気配がない。それはまだまだ努力が足りないからだと言う人もいるだろうが、It doesn't even matter how hard you try.(In the end by LINKIN PARK)

それは、問題のあるAが、解決への努力によって、次第に理想的なAに近づいていく、という前提がそもそも間違っているからである。問題のあるAと、理想的なAというものが段階的な変化によって連続している、という考えは、全くの幻想である。理想的なAなるものは存在せず、理想的な状態として存在するのは、全く違ったBというものなのである。AとBは不連続であり、Aが次第に変化して、Bになるということは決してあり得ない。だから、Aを改善しようとする努力は、決して理想的な状態に到達することはない。そこには、厳然たる断絶の深淵が存在するのである。

では、理想的な状態Bに到達するには、どうしたらよいか。

結論から言えば、Bに到達することはできない。なぜなら、Bはすでに存在しているからである。ただ、まだ顕現していないだけである。顕現していない理由は、Aが存在しているからである。Aの存在がBの顕現を妨げる。つまり、Aを捨て去ることができれば、問題は即座に解決する、ということである。

このことは、蝶になろうとするさなぎや、殻を割る前のひよこに喩えることができる。問題のあるAは、さなぎやひよこにとっては窮屈になりすぎた殻である。この殻は今まで自分を守ってきてくれた、大切なものなので、最初はそれを捨て去ろうなどとは考えもせず、とにかくそのひび割れを修復しようとしたり、自分が大きくなりすぎて殻を破壊しないように努力したりするだろう。

しかしながら、それでは何の解決にもならないのである。必要なのは殻を脱ぎ捨てることだけだ。けれども、今まで一度も殻の外を見たことのないさなぎやひよこにとっては、それは大変な勇気を必要とする。第一、自分がすでに外を自由に動き回れるB(蝶やひよこ)になっているということが信じられない。それは、何が起こるが全く見当もつかない扉を開くことなのである。ここで絶対的に必要になるのは、自分自身や未知の世界に対する信頼である。

 

もう少し具体的な例を挙げて説明しよう。

例えば、夫と仲の良くない妻が、なんとか仲のいい夫婦になろうといつも努力しているが、なかなかうまく行かない。ところが、ある日どこかで出会ってしまった男性とは、何でも話せるし、お互いのすべてをぶつけ合える。信頼し合える。夫ともこういう関係になれないものか、と思って必死で努力してみるけれど、反対にますますぎくしゃくしてしまう。

この場合の夫との婚姻関係はAであり、出会った男性との関係はBである。問題解決の方法はただ一つ、Aを捨てること、つまり夫との婚姻関係を解消することだけである。それをせずに自分の努力が足りないのがいけないのだと頑張れば頑張るほど、事態はますます悪化する。いわゆる「善人」と言われる人ほど、こういう間違いに陥りやすい。彼女たちは自分がしていることが悪いことだとは、微塵も思っていない。「私さえ我慢すれば誰も傷つけなくてすむのだから。」と。けれども、それは単に他人に悪人だと思われたくないからに過ぎない。要するに、自分の評判という殻を守りたいだけなのだ。

あるいは、自分にどうしても直したい欠点があるとする。けれどもいくら努力してもなかなかよくならない。それは、欠点を改善しようとする思いが、もともと自分自身に対する不信感に基づいているからである。自分は不完全で、常にさらなる向上のため努力しなければならない存在であると信じ込んでいるということである。つまり自分に自信がないのだ。

自信がなければ、何事もうまく行くはずがない。結局自分の欠点を改善しようとする試みは完全に失敗に終わる(そしてまた、さらなる自己不信に陥る)。

そこでまず必要なのは、改善する努力をやめて、欠点を肯定することである。物事には必ず表と裏があり、どんな欠点でもその裏には長所をはらんでいる。だから、とにかく欠点を欠点だと決めつけずにそれを容認して野放しにするのである。これはかなりの勇気を必要とする。なぜなら、そのことによってあなたにとって大切な何かが破綻する可能性があるから。今の自分を守ろうとしていては、できないことである。けれども、それによって破綻する何かがあるとすれば、それは間違いなくさなぎの殻のようなもので、あなたにとって本当は必要のないものである。

どんなエネルギーでも、下手に制御せずに思い切りまっすぐぶつければ、悪いことは起きないものだ。ケンカになったとき、自分が感じた怒りが正当であると信じて相手を思い切り殴れば、相手は脳しんとうくらいは起こすかもしれないが、致命的な怪我をすることはない。けれども、「殴ってはいけない」と思いつつ、我慢しきれなくて殴ってしまったら、確実に相手に怪我をさせる。

そうして自分の殻を破った結果が、思いのほかよいものだということを知ったとき、ますます自分自分に対する信頼が 深まる。自分が信頼できさえすれば、そのとき欠点はすでに欠点ですらない。

病気も同じことである。病気のときにも、健康な体というものは、すでに存在しているのである。病気の体が健康になるのではない。さまざまな病院で行われるほとんどの治療は、完全な健康体を与えてくれるものではない。むしろ、病気を治そうとする努力こそが、完全な治癒を妨げる。治そうとする努力をやめて、ただ病気を手放して野放しにすればいいのだ。そうすれば健康な体が自ずと姿を現す。

と簡単に言ってしまったが、実は「手放す」ということは、容易なことではない。

「嫌なものを手放せたら、どんなに楽でしょう! でも、そう簡単にはいかないのです!」

「手放す」ために、どうしても必要なことがある。それは「受け入れる」ことである。矛盾しているようだが、完全に受け入れることができたものだけが、あなたのもとを離れていくことができる。受け入れられないものは、いくら引き離そうとしてもあなたにしがみついて離れない。それは、どんなに嫌なものであっても、それがあなたとともにあるということは、すなわちそれが今のあなたには必要なものだからなのである。

そのことを理解して、例えば病気の体を完全に受け入れたとき、あなたの意識は病気を敵視しなくなる。意識しなくなる。自分が病気であることを忘れる。そのときはじめてあなたは病気を手放すことができる。

病気を治そうと努力すれば、あなたの意識はますます病気に固定化される。だからいつまでも病気が治らないのである。それは、自分自身の体を全く信頼していないということでもある。

 

この世のあらゆるものはすべてつながっている。問題も例外ではない。この世の問題はすべてつながっている。だから、一つの問題が解決するとき、すべての問題は芋蔓式に解決する。したがって、問題の解決の処方箋は万能薬でなければならない。「この世に万能薬など存在しない。」という考え方は常識的だと思われがちだが、実はそうではない。万能薬でなければ、いかなる問題も決して完全には解決しないのである。

すべての問題が完全に解決した次元がすでに存在している。その次元を顕現させるためには、この世の次元におけるすべての問題の解決を放棄して、それが破綻するに任せればいい。それは、「すべてを信頼する」ということである。それが唯一の処方箋である。

簡潔編(2006.6.12)参照。

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