Sun&Moonのリンク

Yes, 愛 can.

混迷する今の世の中をどのように新しく創り直していくべきかということについては様々な議論があり、それらをどう統合していかにして全ての人が幸福に暮らせる世の中を創ることができるかを考え始めると、途方に暮れてしまうものである。完璧な答えなどあるはずがないように思われる。可能であるはずがないように思われる。ところが、実は、それはとても単純で、簡単で、しかも可能なことなのだ!

世の中のために自らを犠牲にする人々がいる。自分のやりたいことを犠牲にして他人の幸せために尽くす。彼らはそれこそが正しいことで、人間としてあるべき姿で、美徳であると思う。無私の姿こそ美しいと思う。そしてそういう行為に自分なりの満足と、自負心と、やりがいを見つけ出す。自分は善良な人間で、社会の役に立っているのだと。

そうかと思うと自分勝手に生きている人々がいる。とにかく自分が楽しければそれでいい。他人に迷惑をかけたってかまわない。自分の一度きりの人生なのだ。我慢してつまらない思いをするなんて馬鹿げているさ。

双方は互いに、お前たちのような人間がいるから世の中は良くならないのだ、と考える。前者は後者を利己主義者だと非難し、後者は前者を偽善者だと笑う。こんな奴等がいてどうして皆が幸せになれるか!

それがどっこいとても簡単なのである。彼らのやり方は両方とも全然間違っていない。彼らのどこかに間違いがあるとすれば、それは彼らのどちらとも、自分のやり方において「中途半端」であるということだけだ。他人のために自らを犠牲にする人々も、どこかでこの程度の楽しみくらいは自分が享受してもいいのではないかと言って自分を欺いている。自分勝手に生きている人も、ある度を超せば社会において爪弾きにあってしまうからと自分を抑えている。いずれも物事には「中庸」が大切だなどと言い訳しているのだ。

どちらのやり方においても、一度とことん極限までやり通してみるべきなのだ。自分を犠牲にする方も、自分勝手に生きる方も。とことん自分を犠牲にしたら、そのとき自分の本当の願いが心の底から湧き上がって抑えきれなくなるのを感じる。それを我慢するのは大変なストレスになり、周囲の人間に当たり散らすしかすべがない。他人に笑顔を見せることすら難しい。そのときその人は悟るのだ。自分は本当にやりたいことをやらなければならないということを。自分が心の底から本当に幸せでなければ、決して他人を幸せにできないということを。自分の本当の願いを犠牲にした他人の幸せなど、全くの偽物だったということを。

一方とことん自分勝手にふるまったら、他人の非難を避けるためにその人は周囲から自分を完全に隔絶するしかない。耐え難いほどの孤独にさいなまれる。極限まで行き着いて、ついにその人は悟る。他人が幸せにならなければ決して自分も本当に幸せにはなれない。自分が本当に幸せになるためには、他人のために完全に自分を捨てなければならないということを。

驚くべきことに、ここにおいて両者は全く同じ場所で出会うのである。両者は実は同じものの別の面に過ぎなかった。言うなれば前者は女性的な面(陰)であり、後者は男性的な面(陽)である。ふたりが本当に望んでいたことは、突き詰めれば全く同じことだったのだ。ふたりはここで今までとは全く別の次元の世界を見る。自他の区別のない世界。他人の本当の幸せと、自分の本当の幸せが見事に調和している至福の世界。女性(陰)と男性(陽)とが、その極限において合体する世界である。その世界はとてつもなく魅力的で、それは愛と呼ぶにふさわしい。けれども未知であるが故に非常に恐ろしい。初めてその世界を見たふたりはその引力に抵抗する。ただ、今まで生きてきた自分のやり方を完全に捨てなければならないことに対する恐怖感から。ここでふたりに必要なのは、ただ、その世界が真実であることを信じて勇気を持って飛び込むことだけである。

それさえできれば世の中の変革など実に簡単なのだ。既存のあらゆる秩序はもちろん壊されなければならないであろう。けれどもそれがこのような自他共の幸福を願う愛の力から起こるならば、たとえ一時的な混乱はあるにせよ、決して誰も不幸にはしない。(もしもたった独りでも不幸にしてしまったら、完全な調和はあり得ず、そうなれば誰独りとして本当に幸せにはなりえないのだから。)そのとき破壊がすなわち新しい創造となる。皆それをわくわくしながら見守るだけでいいのである。もしも神がいるとすれば、神は間違いなくすべての人間が幸せに暮らすことを見て楽しむためにこの世を創造したのだ。

世の中を真に変革できる唯一の方法は、自分が、本当に、心の底から幸せになることだ。自分の本当の幸せとは何か。それは自分が本当にやりたいことを思う存分楽しむことである。それは様々な理由から諦めてしまった、あのわくわくする夢を実現することである。それが何であるかはあなただけにしか分からないことだ。親にも先生にも分からない。どんな偉い宗教家も立派な書物も決して正しい答えはくれない。答えは自分が全責任を負って出さなければならない。自分に対して徹底的に正直になってあなた自身に訊いて見よ。しばしば自分に対して正直になることは大変恐ろしいことである。なぜならその答えは、安易で安全であることは滅多になく、むしろ不安だらけの、周囲の忠告に反する、実現には大変な困難が予想されるようなことだからである。それでも果敢に自分の本音を暴き出して見よ。

例えば心底愛している人がいるのに周りは結婚に反対している。その人は、見かけも性格も良くないし、地位も、金もなく将来は全く不安だらけである。あるいはその人にはすでに妻子がいる。涙をのんで諦めて、親が望むような、安定した収入のある、優しくてまともな人と結婚した方がいいように思える。

けれどもここでそんな妥協をしたらどうなるか。確かに最初は周囲との摩擦はないだろう。しかし日が経つに連れ、自分は本当に幸せではないと感じる。あの彼といたときのような恐ろしいほどの幸福感がない。常に完全に満たされることがない。ストレスが溜まり、子どもに八つ当たりし、夫には小言ばかり言うようになる。夫はそんな家庭に嫌気がさし、浮気に走る。なぜなら、妻が完全に満たされなければ、夫も満たされるはずがないからだ。自分が自分を欺いて幸せになることを諦めてしまうことは、家庭をめちゃくちゃにし、自分はおろか子どもや夫までも不幸にしてしまうことである。

だから勇気を奮って心底愛している人の元に行け。そこで溢れ出すほどの幸せを感じたら、それは必ずや周りの人々をも幸せにせずにはおかないであろう。その幸せはそれからの人生のどんな困難も乗り越えさせる力になるだろう。反対していた親も、あなたの輝くばかりに幸せな様子を見て、気づくことだろう。自分が本当に望んでいたのは、わが子の名誉でも地位でも安定した生活でも世間体でもなく、ただわが子が本当に幸せになることだけだったと。もしも彼に子どもがいたら、あなたはその子にまでも愛を注ぎたくなるだろう。その彼の妻だった人はもちろん一時的なショックを受けるには違いない。けれども直にその彼が自分の本当の相手でなかったことを悟り、新しい、本当のパートナーに出会って真の幸せを掴むことだろう。

例えば自分が本当にやりたい仕事がある。ところがそれは収入が安定していないし、将来性は未知数だし、いつ休めるかも分からない。片や大してやりたい仕事ではないが大企業に口がある。お金はたくさんくれるし休みも多いし、何よりも安定している。こんなとき大企業に就職したらどうなるか。やりたくない仕事を無理に頑張ればストレスが溜まる。結局ほとんどの休日は、本当の楽しみのためではなくストレス発散のために使われる。それでも解消しきれなくてついには病気になって早死にするのがおちだ。それに大企業というのは大抵地球に対する負荷の大変大きい事業をしているものである。そのような会社にははっきり言って将来性はあり得ない。安定した生活など絵に描いた餅である。

だからあなたは本当にやりたい仕事を、時間を忘れ、夢中になって打ち込めるような楽しい仕事をしなさい。そんな仕事なら、間違いなく地球の将来に役立つ仕事であるはずだ。あなたの喜びが世の中全体の真の幸福につながるはずだ。休日はなくとも、毎日が楽しくて休日同然である。そんな風に暮らせば心も体も健康になり、医療費を使うこともない。収入は少なくても十分やっていける。

世の中の全ての人に私は言いたい。あなたがまず幸せになりなさい。今あなたが何かに苦しんでいたり病気だったりするとしたら、それはあなたが自分に正直でなく、自分の本当の幸せを諦めてしまっている証拠である。自分が本当に望むことをとことんやり尽くして心の底から幸せになりなさい。それがたとえ今の自分のおかれた状況と全く相容れないものであっても。あなたのその願いが本当に幸せになりたいという気持ちから湧き出したものであるなら、すなわち愛から湧き出したものであるなら、それは必ずまわりの状況を大きく変える力を持つのだから。それこそが周りの人々にもまた、自分に正直になって本当に幸福になる勇気を与えるのだから。それこそが真に世の中を変革する力となるのだから。

地球を救う唯一の道は、あなた自身が本当に幸せになることであり、そしてそれを可能にできるのはあなただけである。

Yes, 愛 can !

(「湧」1995年12月号 地湧社

[追記] 以前私は「湧」に「片想いのススメ」(92年4月号)という文を載せましたが、 それは自分の中の"生命力"に対する100パーセントの信頼から書かれたものでした。ところがその直後に起きたある男性との「運命的な」出逢いによってその信頼は大混乱に陥ってしまったのです。その彼は、信じられないほど心の奥底でふれあうことのできる人でした。私は彼に大変な魅力を感じましたが、当時私には3才の息子がおり、おまけに第二子を妊娠中で、穏やかで平和で幸せな家庭がありましたから、その人のことは諦めるのが当然だと思っていました。出逢えただけでも幸せなんだと。

ところが遠く離れていて一切連絡も取っていないのに、出産後、私は次第に彼の強烈な引力を感じるようになりました。私の中の"生命力"は明らかに家庭を捨てて彼のところに飛んでいくことを欲していました。優しい夫を持ち、乳飲み子を抱えていながら自分がそんな願いを持ってしまったことに私は愕然としました。そして自分が家族を不幸にしてしまうことを恐れ、必死でその力に抵抗し始めたのです。けれども抵抗すればするほど出産で弱っていた身体はますます衰弱してついに病気になってしまいました。夜も眠れず、家族のために何をすることもできずにただ死を待っていた絶望的な日々でした。

私はいったいどこで間違ってしまったのだろうか、と自問しました。彼を愛してしまったことが、これほど罪なことだったのだろうか。でも、この世のすべてを愛せたほどのあの素晴らしい感情が間違いであるとはどうしても思いたくありませんでした。

その後様々な奇想天外な出来事があって、94年6月、突然事態は急展開しました。夫にも「運命の女性」が現れたのです! そうだったのか! 私は家庭を守る必要はなかったんだ!  94年11月、私たちは離婚し、95年の3月に夫は子連れでその女性と再婚して、今は隣の家で暮らしています。子どもたちも不思議なほど彼女になついており、皆溢れるほどの幸せに包まれています。

私は結局家庭を破壊しましたが、誰一人不幸にしませんでした。何一つ間違ってはいなかったのです。あの絶望的な日々、何かが間違っていたとすれば、ただ一つ、「自分が幸せになろうとしなかったこと」だけでした。

私が事態を中途半端に解決しようとするのを決して許さず、最後まで頑強に私を拒絶し続けてくれた愛する彼に感謝します。

1995.7.14

戻る