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韓国遊学記(1)

私が韓国に住んでいたのは、1986年から89年まで、アジア大会(86年)とソウルオリンピック(88年)の開催を機に、 韓国が外に対して大きく開きつつあった激動の時代であった。(今考えれば、それはまさに私自身が自分を開いていく過程とも符合していた。)

最近の韓国ブームには隔世の感がある。ドラマが日本であれほどの人気を博す理由はよく分かる。ちまたには、韓国に関する書籍が溢れ、学生や近所のおばさんの方が私よりもよっぽど韓国通だと思うこともしばしばだ。

それでもなお、私が体験した韓国はまだ世間にはほとんど知られていないように思うのである。今の私があるのは、 まさにその体験があったからであり、それがすべての原点だった。だから、ここでそのことについて語るのも、意味のあることだと思う。

私が韓国について興味を持ったのは、中学生の時。それは実に単純な理由…‥私の通っていた中学校で、訪日中の韓国の中学生の団体との交流会があり、そこで友達ができたからだった。

私は最初彼女と英語で文通していたが、お互いに外国語でやり取りすることに違和感を感じ始め、韓国語を習ってみようと思い立った。けれども、当時の日本では、韓国語を習う機会は皆無に等しかった。私は神田の本屋街を一日中歩き回り、やっと教科書一冊と辞書一冊を買い求めて、独学を開始した。

けれども、耳で聞かずに本だけで外国語を覚えるなどというのは無謀なことであった(子供の小遣いではとてもテープは買えなかった)。私は正確な発音もわからないまま、いい加減にハングルを覚えて、それで日本語の日記を書いたりしていた。

高校2年の時、東京外大に朝鮮語学科ができるという話を聞いた。本当はそれまでなかった方がおかしいのだが、とにかく私にとっては嬉しいニュースだった。そんなわけで私は東京外大朝鮮語学科の二期生として、本格的に言葉を学び始めた。そして、1986年9月、念願かなってソウル留学を果たすのである。

その話をする前に、余談をひとつ。

1985年、東京国際映画祭の折に、私は大好きな俳優のJames Stewart(1908.5.20-1997.7.2)に会った。私は子供の時から彼の熱烈なファンで、誕生日には毎年ファンレターを送ったりしていた。彼は律儀な人で必ず返事をくれたが、もちろんそれはすべて秘書の書いたものであった。私は一度でいいから、本人からの返事が欲しかった。だから彼が来日することを知った私はどうしても彼に会いたくなり、彼が泊まっている帝国ホテルに出かけて行ったのである。その話を聞いた周りの人間はみんな笑って「そんな有名人に会えるわけがない。」と言った。

私はホテルのロビーで偶然、試写会の時に彼と一緒に歩いていたアメリカ人を見つけた。私はすぐさまそこに行って、「James Stewartに是非会いたい。」と訴えた。その人は変な奴だと言う顔をしていたが、ホテル内にある彼の事務所の電話番号を教えてくれた。

私がそこに電話をして、自分がどれほど彼に会いたいか切々と訴えると、応対してくれた日本人の女性はこう言ってくれた。

「あなたの気持ちはよくわかりました。残念ながら私にはあなたを彼に会わせてあげる力はありません。でも、あなたのためにひとつだけ秘密を教えてあげましょう。すぐに手紙をかいて、封筒の表に○○○○○○という暗号を書き、それをフロントに預けてみてください。必ず彼のマネージャーが読むはずです。」

(何というありがたい言葉!私は今でも彼女に感謝している。)

私は早速拙い英語で長いラブレターを書いた。辞書なしで、よくあんなものが書けたものだと思うが、とにかく火事場の馬鹿力は出るものなのだ。

翌日、私が住んでいた寮にその事務所から電話がかかってきた。

「今日の6時に帝国ホテルのロビーに会いに来てください。」

寮の人たちは、物凄く驚いていた。「本気でやればなんとかなるものなんだね!」

私が喜び勇んでホテルに行くと、彼は秒刻みのスケジュールの中から数分を私のために割いて、マネージャと一緒にロビーまで降りて来てくれた。

手には、私の書いた手紙を持ち、「素敵な手紙をありがとう。」と言って、一緒に写真を撮ったり、目の上にキスしたりしてくれた。それからその写真は私の宝物になった。今でも部屋に飾ってある。

James Stewartと私の写真

私がイギリス人のJに出会ったのは、その2ヶ月後、韓国の研修旅行に行ったときのことである。私が自慢げにJames Stewartの写真を見せると、彼はこう言った。「He's got the same birthday as mine!(僕は彼と誕生日が同じなんだよ。)」そう言われて、改めてJを見ると、背も高いし、雰囲気もよく似ている…

そのことがきっけかで私はJとつきあうようになり、ついに婚約した。今思えば実におかしなきっかけだが、やはり私とJとは縁があったのだと思う。なぜなら、Jは私を見た瞬間、「自分はこの人と結婚する」と思ったという。前世の縁を覚えていたのか? 私はひどく鈍感だが、彼は本当に敏感な人なのだ。

そんなわけで、1986年9月に私が韓国に行ったときには、既に私は婚約していた。程なくして、Jもイギリスから留学してきた。だから私は韓国生活のほとんどを彼と共に過ごした。

留学先のソウル大学に初めて行った日、正門を入ると、そこでは機動隊と学生のデモ隊の小競り合いが続いていた。私は回り道を知らなかったし、どうしてもその日に出さなければならない書類があったので、わけもわからず無謀な強行突破を試み、こともあろうに、デモ隊と機動隊の間に入ってしまった。

両方から石と催涙ガスが飛んでくる。彼らは私を見て驚き、早く外に出ろと叫んだ。私は命からがら逃げ出した。これが私にとって初めての催涙ガスの洗礼であった。

当時のソウル大学は、金曜日になると必ずと言っていいほどデモがあった。その後正門からキャンパスに向かう長い道路には催涙ガスが充満し、しばらくは歩くこともできなくなる。けれども土曜日には授業がなく、月曜日までにはなんとか歩けるようになるから、授業はできるというわけだ。

でも、催涙ガスを一度浴びると本当に大変だ。目は痛いし、肌はひりひりするし、息は詰まるし……たまりかねて顔を洗おうものなら、水とガスの成分が反応してますます痛くなる。

金曜日の午後、催涙ガスが破裂する音が聞こえ始めると、学生たちはみな後門のほうへと逃げ出す。私も逃げるのがうまくなった。 ところが、あるとき私がいた部屋に催涙ガスを浴びた学生が駆け込んできたことがあった。たったそれだけで、その部屋に居た全員が、目と喉の痛みに苦しんだ。とにかくその威力は強烈であった。学生たちはこんな噂をしたものだ。

「フィリピンのマルコス大統領が、韓国の催涙ガスを輸入したのだが、その刺激があまりにもひどいので返品してきたらしいよ。」

けれども、そのようなことも、韓国が外に対して開いて行くに従って少なくなり、留学の後半は催涙ガスに悩まされることもほとんどなくなった。

今でもあまり変わっていないと思うが、韓国の学生にはエネルギーがあった。敢然と権力に立ち向かうエネルギー。でも、一方でこんなこともあった。ついこの前まで、デモ隊の一員として石を投げていた学生が、徴兵されて訓練を受けたあと、機動隊の一員となってかつての友人に催涙ガスを打っている。

また、学生時代には強烈に政府を批判していた学生会長が選挙で当選して政治家になると、今度は学生の弾圧を始める。彼らは本当に世の中を良くしたかったのか?それとも、ただ自己主張したかっただけなのか?

私が韓国で親しくなった友人たちはみな、そのような疑問を持っていた。私が彼らに出会ったきっかけは、Jがひどく落ち込んでいて(イギリス人には韓国の風土は合わないのだ)、何かいい方法はないかと悩んでいたからだった。東洋哲学に興味があったJは「丹田呼吸」を学んでみたいと言っていた。たまたま、私の学友のひとりがある人に「丹田呼吸」を学んでいるという話を聞き、その人を紹介してもらうことにしたのだ。それが、慧元(ヘウォン)との出逢いだった。それがすべての始まりだった。   (続く)

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