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韓国遊学記(8)

「悟った」などと言うと、物凄いことのように思われるかもしれないが、ただ、波乗りができるサーファーになったようなものである。人生にどんな波が来ても、その変化に柔軟に適応して波に乗っていられるというだけのことである。

言うなれば、常に変化し続ける自分を見ている「目」になった、とでも言おうか。だから、自分が何か特別な次元に到達して大層な人間にでもなったように勘違いして、その「到達した自分」に固執するようであれば、それは悟りでも何でもない。悟りとは、要するに、常に変化し続ける自分を受け入れることなのだ。

1988年は、ソウルオリンピックが開かれた年である。それを機に、それまでさまざまな面で閉鎖的だった韓国は、次第に開放的な国へと大きく変化していった。だから、オリンピックは韓国にとって、とても重要な意味のあるイベントであった。

国費留学生たちの多くは、ボランティアにかり出された。韓国政府から、生活費と学費をもらっているのだから文句は言えないが、Jは特に重宝がられ、オリンピックの開かれる2ヶ月前くらいから、毎朝7時に家を出て、深夜に帰宅するという激務をこなさなければならないかった。

Jは母語である英語はもちろん、フランス語、スペイン語、ポルトガル語ができたので、オリンピックの組織委員会の一員として、 ヨーロッパとアフリカからの書類の受付を一手に引き受けていた。

組織委員会、と言っても、経験者は一人もいないので、すべて手探りでやるしかない。その上、書類を締切に間に合うように送ってくる国など、日本や独など、数えるほどしかない。しかも、記載内容は大抵でたらめである。

Jは、母国のイギリスからの選手団が、書類上の参加者よりも100人以上も多く来てしまったたために、彼らを無理矢理宿舎に押し込むのにとても苦労した。それで、団長から大変感謝され、アン王女のパーティに招待してあげると言われたと言う。私たちはその言葉を信じて、楽しみに待っていたのだが、彼らは結局その約束を果たさないまま帰ってしまった。それを知った韓国人の友人たちはみな、こう言ったものだ。

「イギリスは紳士の国だと聞いていたが、最後の紳士が韓国に来てしまったので、もうイギリスに紳士はいない。」
オリンピックの期間中の天気は、連日見事な快晴だった。天気は人の精神を大きく左右するらしい。閉会式の日には、イギリスの選手たちが裸になって競技場を走り回った。普段イギリス人は決してそんなことをしないものである。Jは「あいつらはあまりの天気の良さに頭がおかしくなってしまった。」と言っていた。

Jは間違いなく、オリンピックの影の功労者だった。恐らく、彼がいなければまともな準備はできなかったに違いない。結局彼が手にしたのは、ブレザーと靴とサマランチ会長の感謝状一枚だけであったが、Jは十分楽しんでいた。彼は根っからのボランティア好きなのだ。

慧元の師の弟子たちはさまざまなところで活躍していた。

幼稚園の園長をしている女性もいれば、僧侶をしている人もいた。

そのうちの一人が、易の講習会をすると言うので、聞きに行ったことがある。

易というのは、要するに、この世のエネルギーの流れをプラスとマイナスの組み合わせのパターンとして見るものである。彼は、名前の持つエネルギーが人生に与える影響について研究していた。韓国語は母音に陽母音(プラス)と陰母音(マイナス)が存在するので、名前の中のプラスのエネルギーとマイナスのエネルギーが区別しやすい。日本語の名前はどうなのであろうか。

彼は、私の人生を占ってやる、と言って、おもむろにコインを取り出して投げた。そこから、4つのパターンを割り出し、私の人生の起承転結を占うのである。

すると、起と承は普通だったが、転は最悪であった。私は自分の人生においてさほどの困難を感じたことがなかったので、それはちょっと意外であった(転がこれから来るとも知らずに!)。ところが、結は64個の卦のうち最高の「地天泰」だったのである。地と天がひっくり返っているのは、「天の意が地に顕現する」という意味である。この占いの結果を私は無邪気に信じている。

韓国の宗教事情は、他の国にはちょっと見られない様相を呈している。一番盛んなのは、キリスト教。ソウルの夜景は赤い十字架だらけだ。信者はインテリや若い人が多い。神父や牧師の中には、天の啓示を受けたような人が結構いて、それぞれ熱心な信者を抱えている。その次は仏教で信徒はおばさんが多い。お坊さんの中には、本当に悟りを開いたと言われる高僧も少なくない。そのほかにも、ムーダンと呼ばれる巫女がたくさんいて、占いや降霊などをしている。

その他、檀君を教祖とする韓国固有の宗教であるテジョン教がある。テジョン教については、日本に帰国してから、他の先生が貸してくれた本を読んで知ったのだが、その思想の中の、全体の利益と個人の利益に関する記述は興味深い。

全体の利益と、個人の利益は相容れない、というのが世間のごく一般的な考え方であろう。だからこの世には、全体主義と個人主義の対立があるのである。けれども、テジョン教には、全体の本当の利益と、個人の本当の利益は調和するはずだという考え方がある。私もそう思う。

韓国の若者の中には、神父、牧師、僧侶(韓国では普通、妻帯しない)のような聖職者になろうとする者が結構いる。日本では自分の息子が僧侶になりたいと言ったら、反対する親が多いと思うが、韓国の親はむしろそのようなことを誇りに思ったりするところがある。

いずれにせよ、韓国における宗教は日本よりもはるかに盛んで、みな大変熱心である。にもかかわらず、宗教対立がない。それが韓国の凄いところだ。すべての宗教の根元はみな同じだということが、心の奥底でわかっているからではないだろうか。

私はとても惚れっぽい性格なのだが、どういうわけか、韓国人に惚れてしまうことは滅多になかった。唯一の例外が、私たちの家にしばらく居候していた詩人である(韓国には結構詩人が多い。本の中では詩集もよく売れるらしい)。

彼は私より、1才年上で、同居していた韓国人夫婦の知り合いだった。とても女性的な感じのする人で、しばらく見ているうちに、なんて素敵な人だろう!と思うようになった。あるとき、我慢ができなくなり、私は彼の前で、「あなたはとても素敵だ!」と言ってさめざめと泣いてしまった。彼もきっと嬉しかったんだろうと思う。でも、私は既に結婚していたし、彼も放浪生活をする身だったから、特に何事もなく別れた。そのとき私は、好きな人にただ「素敵だ!」と言えるだけで、十分幸せを感じられるのだと知った。

私の韓国留学も終わりに近付いた頃、日本から大学の後輩がやって来た。

私は、慧元と出会ってから、人生に対する考え方が全く変わってしまった。そのことについて、日本にいる指導教授に手紙を書いたことがあるのだが、それがかえって教授の怒りを招くことになってしまった。しかも、留学の途中で、せっかく彼が日本の大学の就職口を紹介しくれたのに、「まだ帰りたくない。」という理由で断ってしまったために、指導教授との関係は決定的にこじれてしまった。後輩は、その指導教授に「塩田さんを説得して正しい道に引き戻して来い。」という命を受けてやって来たのである。

私は韓国で学ぶべきことは慧元から十分学んだので、そのことについては心から満足していたが、日本にいる指導教授や、韓国の指導教授をはじめとする、私の韓国留学を支えてくださっていた先生方に不義理をしてしまっていることを、大変申し訳なく思っていた。それで、後輩に正直にそう話すと、彼はこんなことを言った。

「僕が信じている金剛教の教えに『ときよ』という言葉があります。もしも先生方にどうしても返さなければならない恩があるのなら、必ず返せる時が来ますよ。」

その言葉は私にとって、本当に有り難い言葉だった。私はその言葉によって、私の心に残っていた最後のわだかまりを消し去ることができたのである。私は今でも先生方に不義理をしたままだが、いつか必ず恩返しができる時が来ると信じている。それは、先生方が私に期待するような形ではないけれども。

後輩は「ミイラ取りがミイラになってしまった。」と苦笑しながら帰って行った。

大学の就職口を断ってしまって以来、私は大学で教鞭を取ることをすっかり諦めていた。指導教授を怒らせてしまったので、もう二度と、そのような仕事を紹介されることはないだろうと思っていたのである。だから、留学を終えたら、韓国に残って食堂のおばさんにでもなろうか、とか、出版社に翻訳要員として雇ってもらおうか、とかいろいろなことを考えていた。

ところが、留学を終える直前になって、また、私を招いてくれる大学が現れた。それが今の職場である。L教授が私を推薦してくれたのだと言う。ところが、何年も経ってから、実は日本の指導教授も私を推薦してくれたのだということを知った。親心と言うべきか。私があんなに怒らせてしまったにも拘わらず、私を推してくださったというのは、本当に有り難いことである。

慧元は長い間、自分の師が誰なのか、私に明かさなかった。

私がようやく自立したと思われた頃、慧元は私に、自分の師の著作を日本語に翻訳してみないかと提案した。慧元は私に最初に出 会った時から、そのことについて考えていたらしいが、私が彼の著作を完全に理解できるようになるまで、待っていたのだ。

その仕事を引き受けることにした私は初めて慧元の師「素空慈」に会うことになった。
彼は思ったよりも若い、優男であった。私が日本に帰国した後、彼の著作は「悟りの瞬間」という題で地湧社から出版された。

実は、私が月○と知り合ったきっかけは、月○がその本を読んでいたからであった。月○が素空慈と会いたがったので、私は彼が来日した時に月○を呼んで、二人を引き会わせた。

その後、私は月○との関係がこじれて、病気になってしまった。私がほとんど死にかかっていた時、素空慈が、日本人の弟子たちを引き連れて、私の家まで見舞いに来てくれたことがある。けれども、そのときの素空慈には、私を助ける力は全くなかった。彼もまた、不幸のどん底だったのである。韓国の自宅が火事になり、最愛の娘が焼死したのだという。

私は韓国を離れる時、人生に何の不安もなかった。これからの人生にどんな波が来ようと、それに対応できる自信があったからだ。ところが、月○との出逢いは、私の想像を絶する大波であった。

最初彼に出逢ったとき、私は、以前に韓国で好きになった詩人のように、私が「好きだ」と言って大泣きすれば済むものだと思っていた。ところが、事はそれでは終わらなかった。

それまでの私は、変化に対応できる水のような存在であればよかった。人に迷惑をかけることもないし、秩序を壊すこともなく、淡々と生きていればよかった。ところが、月○を好きになってしまってからの私は、変化を引き起こすエネルギー持ってしまったのである。自分では到底制御できない、強烈なエネルギーが自分の周りの秩序を破壊しようとし始めたのである。

考えてみれば、本当にこの世を変革するためには、誰かが一旦この世の秩序をすべて破壊する必要がある。けれども、自分が率先してそれをしなければならなくなったとき、そのことを受け入れるのは大変難しい。

そのときの私には、それが正しいこととは思えなかった。具体的には、「離婚」という事態を自分が引き起こすことが、自分に許されているとは到底思えなかった。いや、もっと正直に言えば、自分が「悪者」になってしまうのが怖かったのだ。自分はすでに自分のエゴに振り回される人間ではないはずだ。人に迷惑をかけるようなことをする人間ではないはずだ、という思いが、自分の中の強烈なエネルギーに死にものぐるいで急ブレーキをかけた。

恐らく、素空慈も、私と同時期に私と似たような目に遇ったのだと思う。彼が持っていた自信を根底から揺さぶるような女性(おそらく弟子)に出会ってしまったのではないか。それは彼にとっても、理解できない衝撃であったに違いない。そして彼は、自分はもはや女性に振り回されるような存在ではないはずだ、さらに、弟子の前では師であり続けなければならない、という思いから彼女を拒絶したのであろう。その結果、彼に訪れた悲劇が自宅の全焼である。一旦正しい道を歩き始めた人間が、その道を外れたとき、そのしっぺ返しはとてつもなく大きい。

素空慈はその後来日して、しばらく日本で活動していた。日本での彼の信奉者がロールスロイスをプレゼントしたので、「大きすぎて、駐車するのも運転するのも不便だ。」と文句を言いながら乗り回していたけれど、今はどうしているだろうか。

(ちなみに、慧元は私が韓国にいるときに奥さんと離婚し、数年前に本当の伴侶と出会って、再婚した。)

いわゆる「悟った」人が、自分の本当の伴侶に出会ってしまったときの衝撃ほど大きいものはない。それまでは、統制しなくても、自分自身が自然に制御されていたのに、突然、自分の中から制御不能なエネルギーが湧き起こってくるからである。

それに突き動かされるままに行動していれば、本当は問題がないのだが、そうすると、間違いなく周りの人々に多大な影響を及ぼす。それも周りの人にとってはさぞかし迷惑だろうと思われるようなことばかりなのだ。

自分が他人を変えていくことを100%肯定できない限り、そのエネルギーを開放することはできないだろう。ということは、自分に100%自信がなければならない、ということだ。自分のしようとしていることが100%正しくて、他人は表面的にはそれを拒否していても、彼らの本心はそれを望んでいると完璧に信じられない限り、自分の中に湧き起こるエネルギーを肯定することはできない。

だから、自分の中にそのようなエネルギーを持ってしまった人々は、みな、驚き、ためらい、苦しむのである。けれども、いずれはそれを開放せざるを得なくなる。自分を信じるしかなくなる。そうしなければ、狂人になるか、廃人になるしかない。

今、世の中のあらゆる秩序が揺らいでいる。今のままでは、あらゆる問題は到底解決することができないからだ。自分の中にそのようなエネルギーを隠し持ってきた人たちが、いよいよそれを開放すべきときが来たのだ。

ただ、自分を解放する快感を存分に味わえばいいのである。

何のためらいも、何の後ろめたさもなく、自分を100%肯定して。

そうすれば、必ずすべての人を幸せにできる。

本当に素晴らしい時代が来たね!

(完)

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