「言語から見た自己認識と自己変革の方法について」

1. はじめに

 現代社会は目まぐるしく変化しており、今まででは考えられなかったような事件や問題が多発している。そしてそれらの根本的な解決策を見い出すことができないまま、問題に対処するための対策がさらなる問題を引き起こす、といった悪循環を引き起こしている。
 この行き詰まりを打開するためには、どうしたらよいのだろうか。今までのやり方を踏襲するならば、未解決の問題を完全に解決するためには、さらなる研究、もっと多くの時間、費用、人材が必要なのだということになるであろう。
 しかしながら、そのようなやり方では莫大な財源と人力が必要となる。私たちはしなければならないことに追いまくられてますます疲弊する。また、時間的にもそのような悠長なことを言っている場合ではない。さまざまな人間活動の結果引き起こされた地球環境破壊は、もはや待ったなしの段階にまで来ているのである。
 つまり今求められているのは問題の本質的な解決である。今までの発想を大きく転換して、全く新しいやり方で、すべてを根本的に解決できる方法を探す必要があるのだ。
 本論は、その方法を言語のさまざまな様相をもとに探ろうとするものである。

2. なぜ言語なのか?

 問題の根本的な解決を探る手段は、必ずしも言語である必要はない。全く異なる分野であっても、最先端の研究をしている者同士は、どこかで通じ合うものがあるという。何学であれ、本質はみなどこかで繋がっているのである。つまり、どのような学問分野であれ、すべて物事の根本に通じるものがあるということである。
 故に、言語を通して物事の本質に迫り、そこからすべての問題の解決の糸口を探ることも可能である考えられる。とりわけ言語は、人間の思考と認識そのものを規定する大変重要な要素であるから、最もその対象に相応しいと言えるだろう。

3. 研究の方向性について

 今までの研究は、分析によるものが主流であった。分析のためには物事を細分化する必要があるが、それはすなわち、研究対象が果てしなく増加し、複雑化していくことを意味する。つまり、分析による研究には終わりがないということである。
 また、物事を細分化すればするほど、かえって全体像は見えにくくなる。これでは永遠に答えは出ないことになり、問題の根本的な解決は望むべくもない。
 問題の根本的な解決を目指すためには、全体を見なければならない。そして、複雑化ではなく、単純化の方向に向かわなければならない。そのようなアプローチこそが、物事の本質に近づくことを可能にするのである。
 では、問題を単純化してなおかつ全体を見るにはどのようにしたらよいのだろうか。それを言語の様相をヒントに探っていこうとするのが、この論の趣旨である。

4言語を通して見た物事の本質

4-1 部分と全体の関係について

 まず最初に、言語における部分と全体の関係について考察する。
 言語学の基本的な考え方のひとつに、「言語は体系をなしている」というものがある。言語のいかなる部分も、それだけ(単独)では意味をなさない。つまりどの部分も、全体との関連性の中においてのみ、意味を持つことができるのである。いわゆる構造主義の考え方である。
 たとえば、「赤い」という単語の意味は、「赤い花が咲いている。」「赤い服がよくお似合いですね。」「猿のお尻は赤い。」などのような、文脈の中での他の単語との関係[1]と、「赤い」と置き換え可能な「白い」「黒い」「青い」…などの色を表す単語群との関係[2]によって規定される。要するに、「赤い」という単語の意味は、その単語単独では規定することはできず、その言語中の他の単語との関連の中においてのみ規定することができる、ということである。
 すなわち、ある言語の中のすべての単語は、その言語の他の単語との相互関係においてのみ、意味を持つことができるのである。よって、厳密に言うならば、1つの単語の意味(部分)を完璧に理解するためには、その言語の他のすべての単語の意味(全体)がわからなければならない。その言語の全体像がわからなければ、1つの単語の意味も正確にはわからないということである。
 つまり、言い方を変えれば、「1つの単語の意味(部分)には、その言語のすべての単語の意味(全体)が含まれる。」と言うことができるのである。
 定義上は、「部分」は「全体」の一部であり、「部分」は「全体」に含まれると考えるのが普通であるが、実はその逆も真(「全体」も「部分」に含まれる)なのである。しかしよく見ればこのような現象は、言語に限らず世の中のいたるところに現れている。木の枝を落とし、さらにその枝を落とす、というやり方で切っていけば、どんなに小さい枝でもその木全体と同じ形をしているのを見ることができるし、人間のDNAの研究は、身体のどんな極小の部分にも全体の設計図が宿っていることを示している。自然界に存在する自己相似形「フラクタル」である。要するに、「いかなる部分にも、全体の縮図が宿っている」と言えるのである。
 このことから、問題解決のためにどのようなヒントが導き出せるだろうか。今までわれわれは、物事について知るために、まずそれを分析し、さらにそれについてできるだけたくさんの情報を集めることによって、一歩でもその全体像に近づこうとしてきた。けれども、無限にある情報をすべて集めることはできないし、また、分析のために部分を全体から切り離したとたん、その部分の全体との関連性は失われてしまうのだから、真実を知ることは不可能である。にもかかわらず、今までその方法は延々と行われてきた。
 しかし、もしもいかなる部分にも全体の縮図が宿っているのだとしたら、どの部分でもよいから、それを極め完璧に知ればよい、ということになる。そうすれば全体がわかるはずだ。[3]
 けれども、ほんの一部でも完璧に知るということは果たして可能なのか?部分を全体から切り離したとたん、全体との関連性は失われてしまうのだから、森羅万象のどの部分も、それを切り取って客観的に知ることは不可能であるはずではないか?
 ところが実は、我々にとって、完全に知ることのできる「部分」がたったひとつ存在だけするのである。それはすなわち「私」(自分自身)である。「私」は「宇宙」(すべて)の一部であるのだから、私の中に「宇宙」(すべて)の縮図が宿っているはずである。つまり、すべてを知るためには自分自身を知ればいいのである。従って、あらゆる問題解決の鍵は「自分自身を知る」ことである、と言える。
 「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は、はるか昔からよく知られている。けれども、この言葉に関して、「自分自身をもっとよく知るべきである」とか、「自分自身を知ることは大変難しいことだ」などという議論はされても、この言葉の持つ本質的で重大な意味については、ほとんど考えられて来られなかったように思う。
 この言葉は、極言すれば「宇宙のすべてを知るために、自分の外の世界を考察したり、研究したりする必要はありません。あなた自身を知れば、宇宙のすべてがわかるのです。」ということなのだ。このとき、興味の関心は自分の外ではなく、内に向けられる。情報は外に向かって拡散するのではなく、自分自身の中心に向かって収斂する。それにより、すべて単純化して、本質に向かうことが可能になる。それこそが真の問題解決への道なのである。[4]

4-2 「私(自分)」の定義
 とはいえ、自分自身を知ることもまた、容易なことではない。まず、「私(自分)」というものがどのように規定されるかについて考えてみよう。
 普通は身体と自分を同一視するのが一般的だろう。けれども身体以外に、明らかに「自分」という心理的な領域が存在する。「自分」であると感じている意識体(心)である。この「自分」は何であろうか。
 「あなたはだれですか?」と訊かれたら、たいていは名前を答えるだろうが、自分の名前がわかったからと言って、もちろんそれで宇宙のすべてがわかるはずもない。名前というのは、私に付けられたただの名称であって、私の本質ではないからである。
 では、「あなたは何ですか?」と訊かれたら、どうだろうか。私ならばおそらく「人間です。」「女です。」「教員です。」「楽天家です。」などの答えが想定される。それらはすべて、何かの範疇を指し示す言葉である。つまり、自分というものを『かくかくしかじかの分類に属するもの』として捉えているということである。生物学的観点、職業、社会的な立場、性格などよって分類された範疇の総和が私である、というわけである。
 しかしながらそれらもまた、「私(自分)」という存在の本質であるとは言い難い。それらは一時的に、あるいはたまたま自分が属している範疇にすぎないのであって、「私(自分)」であると自覚する意識体自体を指しているわけではないからである。
 そのような分類は、「私(自分)」というものを他と区別することによって規定しようとするものである。つまり、「私(自分)」とは「他」との境界線によって規定される、というわけである。この、他人との境界線を引くことによって「(私)自分」が成り立つという考え方は、広く一般的に受け入れられていると言えるだろう。ほとんどの人が、自分と他人との間の境界線を引くことが可能だと考えているように思われる。そもそもこの社会は、「自分のもの」と「他人のもの」を区別することによって成り立っているのだから。
 ところが言語学においては、「境界線を引く」ことこそ、最も困難なことなのである。言語学の範疇をどんなに厳密に定義しようとしても、必ずどちらに属するとも言えない曖昧な例が出てきてしまう。
 たとえば、日本語の用言における動詞と形容詞は形式上はっきり区別できるように見える。基本的に-uで終わるものは動詞、-iで終わるものは形容詞、と言うふうに。けれども実際には、「違う」のように活用形においては形容詞のように見えるものが出現し(最近、「違かった」のように言う若者が増えている)、その境界線は曖昧になっている。
 また、単語の意味においても、どこからどこまで、というふうに厳密に境界線を引くことはできない。たとえば「夕方」と言ったらだいたい何時頃かは言えるだろうが、具体的に何時から何時までかと訊かれたら、場合によって、あるいは人によって答えはさまざまであろう。
 つまり言語においては、実際に存在する事象はいつも必ず連続体なので、そもそも境界線を引くことは不可能なのである。それを「私(自分)」の定義に当てはめて考えると、「自分」と「他人」の境界線は引くことはできない、ということになる。
 以前の日本社会においては、自分と他人の境界線はかなりはっきりしていたように見える。また、あえて他人の領域を犯そうとする人も少なかった。けれども現代社会では、精神的にも物理的にも、今まで足を踏み入れることのなかった、他人の領域にまで踏み込んでくる人が増えて来た。そのような意味で、自分と他人の境界線はかなり揺らいできていると言える。
 多くの人はそれを不安に感じている。「他人」が「自分」の領域に踏み込むこともそうだが、自分が暴走して他人に迷惑をかけることも恐れている。「自分」と「他人」の境界線がはっきりしている方が安心できるという人がほとんどで、それが存在しないということを何の抵抗もなく受け入れられる人はめったにいないだろう。それは先に述べたように、「私(自分)」は「他人」との境界線によって存在しているという認識が一般的であり、もしもその境界線をなくしたら、「私(自分)」もなくなってしまうように感じることも一因であると思われる。
 けれども、境界線を引くことが不可能であるということが真実であるとすれば、そもそもないはずの境界線に固執することこそが、物事を複雑化し、問題の解決を困難にしている要因になっていると考えられるのである。とすれば、問題解決のためには、境界線をなくすことに対する恐怖感や抵抗を消し去るアプローチが必要となるわけである。[5]

4-3 認知言語学的アプローチ

 そこで想起されるのが、認知言語学における意味の定義である。認知言語学は、それまでカテゴリー(範疇)によって定義されてきた言葉の意味をプロトタイプよって説明するものである。
 いかなる範疇も、境界線が曖昧であるという限界を逃れることはできない。しかしながら、境界線がないからと言って、そこに全く何も存在しないというわけではない。範疇というものが想定される以上、そこには必ず何かの典型的な中心(プロトタイプ)が存在する。そしてその存在に関しては、万人の意見が一致する、というのである。
 たとえば、動詞という範疇について「どこからどこまでが動詞か」を明らかにするための定義ついては、人それぞれ意見が異なり、明確な境界線を確定することはできないが、「最も典型的な動詞はどのようなものか」ということについては、意見の一致を見ることができるのだ。たとえば「‐uで終わる」、「動作を表す」、「時制がある」、「命令形がある」などの特徴を持つ「食べる」「歩く」「飛ぶ」のような単語である。これに対し、「違う」「異なる」などは‐uで終わってはいても他の要素を満たさないため、周辺的な単語であると言える。[6]
 同様に、「赤い」という言葉の色の範囲は確定することができないけれども、最も典型的な「赤い」色はどれかと訊かれれば、だれもが同じ色を指し示すと言う。つまり、境界線は確定できなくてもプロトタイプは厳然と存在し、それを中心とした意味の広がりは存在するのである。[7]
 このことを「私(自分)」と「他人」の問題に当てはめて考えてみると、「私(自分)」と「他人」の境界線はなくても、「私(自分)」というプロトタイプは存在する、ということになる。つまり、境界線はなくなっても、典型的な自分、最も自分らしい自分、本当の自分は決してなくならない、というわけである。
 自分という存在のプロトタイプを認識し、そこにしっかり根を下ろした人は、他人との境界線が揺らいでも、動じることがなくなる。境界線の揺らぎが自分の存在根拠に何ら影響を与えないからである。むしろ、その中心から発するエネルギーと他人のエネルギーとがぶつかって生まれる、和音やハーモニーを楽しむことができるようにすらなる。
 もうひとつ大切なことは、自分のプロトタイプ、典型的な自分については、万人の意見が一致するということである。つまり、それは万人に受け入れられるものである、ということだ。一般に、自分が他人に受け入れられるためには、他人に合わせなければならないと思われがちである。けれども実は、他人に合わせるのではなく、最も自分らしい自分を貫いたときに、すべての人が自分を受け入れてくれるようになるというわけだ。[8]
 つまり、他人が自分の領域に踏み込むにせよ、自分が他人の領域に踏み込むにせよ、それが最もその人らしいその人、自分らしい本当の自分であるならば、問題なく受け入れられるということなのだ。このことを理解して、人生において思い切って本当の自分を出していけるようになれば、自分自身に対して自信が生まれるはずである。
 本当の自分自身を受け入れることができた人はまた、他人をも受け入れることができるようになるものである。そのように、すべての人が互いを受け入れられるようになれば、必然的にこの世から争いはなくなる。
 すなわち、つぎのような結論に達する。「問題解決のためにしなければならないことは、最も自分らしい本当の自分に自信を持って、それを貫くことである。」

4-4 反義語

 さて、本当の自分に自信を持って、他人との境界線をなくしていけばいいことは理解したとしても、それを実践することは、容易いことではない。
 他人との境界線をなくすということはすなわち、意識が今までの「自分」という枠を超え拡大することを意味する。つまり、言いかえれば「自分の殻を壊す」ということである。けれども「自分の殻」こそが、ほとんどの人が今までずっと「自分」であると信じて守ってきたものなのである。だからそれを壊すことには、当然抵抗を感じるはずである。よって今度は「自分の殻を壊す」ためのヒントについて、反義語を例にとって考えてみることにする。
 反義語とは、文字通り反対の意味を持つ言葉である。「上」と「下」、「内」と「外」、「良い」と「悪い」、「開く」と「閉じる」、などがその例である。ところで、反対の意味と言えば、互いに相容れないものであるはずなのに、実は視点を変えてみれば、反義語は常に同義語になる可能性を秘めている事に気づく。
 たとえば、つぎの写真のようなバスのおもちゃがある。屋根に付いているボタンを押せば、扉が横にスライドしてドアが開くのだが、そのドアのすぐ横にある窓は、横滑りした扉にふさがれて、逆に閉まってしまう。
ドアの閉まったバスのおもちゃの写真ドアが開いたバスのおもちゃの写真

 このとき、視点をドアに限定すれば「開く」、窓に限定すれば「閉じる」と言うことができるが、バス全体を視野に入れれば、起きていることは全く同じ事、すなわち「扉がスライドする」なのである。そのことに気づくためには、ドアと窓の両方が目に入るまで視野を拡大する必要がある。
 また、「知っている」と「知らない」も、同義語になりうる。かつて、学者たちが「塩」について研究した結果、「塩は過剰に取りすぎると高血圧を引き起こし、健康によくない」という結論が出た。それを知った人々は、なるべく塩を取らないように心がけるようになった。ところが、さらなる研究の結果、実は塩に含まれるミネラルは健康に不可欠で、それを制限するのはかえって健康に悪いという説が唱えられ始めた。
 ある物事について、何かを知ると、視野はそのことに限定され、それ以外のすべてのことを無視してしまうようになる。つまり、「知った」分だけ「知らない」ことが増えてしまうということだ。情報はたくさんあるほどいいと思われがちだが、それは「知る」ことによってスポットライトが当てられたこと以外のすべてのことに対する「無知」が深まったにすぎないのである。[9]だから、情報が増えれば増えるほどかえって混乱が増すことになる。そういう意味において、「知る」は「知らない」と同義なのだ。そのことに気づけば、人間はたくさんのことを知ったようで、実は何も知らないのだということがわかる。[10]
 視野を広げるということはすなわち、自分が今まで信じ込んできた考え方やものの見方、つまり殻を壊すということに他ならない。ここに自分の殻を壊して視野を広げるヒントがある。つまり、まず反義語は同義語であるという考え方を受け入れ、どのような視点に立てば、それが可能になりうるかを考えるのである。
 たとえば、争いが起きたとき、当然の事ながら、自分が勝てば敵は負けるし、逆に敵が勝てば自分は負けることになる。ここで勝ち負けが同じ意味を持つ視点は何かと言えば、自分と敵をひっくるめた視点である。例を挙げれば、兄弟げんかをしているならば、その親の視点である。ふたりとも可愛い子どもなのだから、どちらが勝とうが関係ない。むしろ、二人で争っていること自体を悲しむだろう。しかし争っている当事者がいきなり親の立場に立てと言われても、実際にはなかなか実践できるものではない。
 けれども反義語=同義語という観点[11]が、自分の殻を壊すことを考えれば、自分と正反対の存在=自分の敵こそが、自分の殻を壊すのに最適の存在であることは間違いない。つまり、自分の敵こそが本当の味方なのである。[12]
 自分と正反対の人間とは、見方を変えれば、自分にないものを持っている人、新しい視点に気づかせてくれる人、ということである。だから互いの成長を助け、補い合う存在になりうるのである。敵対関係だった者同士が互いに協力し合うようになれば、だれよりも強力な味方となりうる、ということなのだ。[13]

5 自分と正反対の存在

 「汝の敵を愛せ」とは、宗教でもよく語られる言葉である。しかし言うは易く行うは難しというのはまさにこのことである。
 ところが実は、自分と正反対の存在が自分の本当の味方であることを認識させてくれるのに最適の存在がいるのである。それは自分の本当の片割れ、本当の相手である。その人は、自分と正反対のエネルギーを持っていながら、ある意味で共通の土台を持っており、自分とよく似ているとも言える。ちょうど表と裏のような存在である。この二人は互いにとって唯一の相手であって、他のだれとも競合せず、争ったり奪い合ったりする必要がない。
 二人はエネルギー的に言えば正反対(陰と陽)であるから、必然的に互いに引き合う引力を持つことになる。要するに、二人は恋に落ちるのだ。二人は互いの最も典型的な中心(本当の自分)に最も魅力を感じる。だからこの二人が互いを伴侶として選べば、つねに自分の中心に留まりながら、殻を壊していける最高の環境が整う。
 二人の関係を図に表せば、つぎのようになる(同じ模様の部分)。

 二人が出会う場所は、すべての人の意識と繋がっている。つまりすべての人の意識の中心(円の中心)である。ということは、二人が引力に素直にしたがって、まっすぐに向き合っていれば、必然的にすべての人と繋がることができるということだ。[14]
 筆者は2006年8月から2007年3月まで、インターネットを利用して、のべ2000件を超える恋愛相談を行った。その結果、自分の本当の相手から逃げずに向かい合っている人たちは、自然に他人との共感が増しすことがわかった。[15]彼らはまさに上記の円の中心部に留まっているのである。彼らはSNS[16]において、互いに助け合い励まし合うコミュニティを形成しているが、互いに正直な考えをぶつけ合っても、敵対することがない。お互いが協力者だということがわかるからである。すべての人が本当の相手と出会うことによって本当の自分に自信を持ったとき、この世に真の調和が訪れるということを、みな心の底で感じ取っている。
 このコミュニティの素晴らしいところは、だれもその活動を統制する必要がない、ということだ。唯一の不文律があるとすれば、それは「自分に正直になること」である。本当の相手の引力に素直に従っていれば、自然に本当の自分という中心に留まることができ、自分の殻を破っていけるばかりか、他人と敵対せずに助け合っていける調和した社会が生まれるのである。
 しかし、もしも物事の解決がこれほど簡単なことなら、なぜ世の中が今のようなありさまになってしまったのだろうか。
 その大きな原因は、人が引力の赴くままに動くことに恐怖を感じることにある。自分という存在は、訓練され、統制されなければ、正しい行動ができない、と多くの人が思いこんでおり、自分が感じる引力や衝動のままに行動することに、罪悪感を感じてしまっている。特に厳しい自己統制を訓練されて育ってきた人は、本当の相手に出会うと恐怖を感じて逃げてしまうことがよくある。今まで抑え込んできたものが一気に吹き出してしまって、とんでもないことをしでかすのではないか、という恐怖が湧いてくるためである。それによって、今や世の中のほとんどの人たちが、自分が選ぶべき伴侶を間違えるという事態になってしまった。[17]それがまさに今の社会の混乱を作り出している。
 けれどもそれは、自分の中心、プロトタイプの存在に気づいていないことから起きる誤解である。他人との境界線が自分を規定していると思いこんでおり、常に越境しようとする自分を統制しなければならないという考えが、自然で正直な行動を妨げているのである。もしも自分のプロトタイプ、すなわち本当の自分が万人に受け入れられることがわかれば、みんな安心して本当の自分が出せるようになるはずである。
 もちろん、本当の自分を出すということは、何でもかんでもやりたい放題やればいい、ということを意味しない。常に自分と正反対の本当の相手と向き合うことによって、自分の殻を壊していく作業は絶対的に必要である。それをしなければ、すべての人と共感できる自分の中心に留まることができないからである。自分の中心にいなければ、決して他人の本当の痛みや悲しみを理解することができない。
 最も困るのは、長い間自己統制をしてきた人が、今まで抑え込まれてきた本当の自分が出てきてしまうことを恐れて、本当の相手から逃げることである。そうすれば、当然自分の中心からも逃げることになり、他人と全く共感できない人間になってしまう。彼らは、自分は他人に迷惑をかけないために自己統制をしているのだ、と自己正当化するのだが、実は逆に他人の痛みがわからない、本当に自分勝手な人間に成り下がってしまうのだ。それでも彼らがかろうじて自己統制に成功している場合はいいが、自分に正直でない態度はいつか必ず無理を生じて、ついには「キレる」という現象が起きてしまう。それが現代社会の闇と言われる深刻な事件を引き起こす。
 「本当の相手」というものは、今までも存在していたはずだが、社会においてその存在が知られ、クローズアップされることはなかった。それを今ここで取り上げるのは、すべての変化が急速で、かつ、解決できない問題が急増している現代、それらを根本的に解決する突破口として、今こそその存在が注目されなければならないからである。

6 結語

 山積する現代の問題の根本的解決方法を探るべく、言語を手がかりにして、自己認識と自己改革の方法について見てきたが、結局必要なことは本当の自分を知ること、そのためには自分と正反対の存在である本当の相手と向き合うことである、という結論に達した。時代は今、大きく変化しつつある。本当の相手と出会う人々が急速に増えているのだ。それはパズルと同じで、はまればはまるほどそのスピードは加速度を増していく。
 そして、世の中の人がすべて自分の本当の相手と出会い、本当の自分に自信を持つことができるようになったとき、自分と他人の境界線は消滅し、すべての人々が互いに共感しあい、助け合うことによって調和する新しい社会が生まれるのである。

[1] syntagmaticな関係
[2] paradigmaticな関係
[3] ソシュールも次のように述べている。
「現象のぎりぎりの存在理由が、現象のぎりぎりの細部であるとはなんぴとも知るところで、かくて極度の特殊化だけが、極度の一般化に有効にはたらきうるのです。」(『沈黙するソシュール』p25-26)
[4] これは仏教などで言う「悟り」に向かう道と、本質的には同じものである。
[5] 南北朝鮮の問題も、統一することで分断の境界線がなくなることに対する恐怖が問題を複雑化していると言える。
[6] 筆者もかつて『現代朝鮮語のアスペクト』の中で次のように論じたことがある。
「 まず、文法的な対立をどのように記述すべきかについての私見を述べたい。
 文法的な対立というのは、一見明らかなもののように見えるが、実はそうではない。A:Bという対立が存在するとき、ある場合には何がAで何がBであるかは誰の目にも明らかな事実である。これによって人々はそこにAとBが存在することを認識する。しかしまた、他の場合には、AであるかBであるかわからないような中間的なものがあったり、あるときにはAになりあるときにはBになるようなものが出てきたりする。そこでそのあいまいな部分を徹底的に調べてみると、ついにはもともとAとBなど存在せず、すべてはカオスであるかのように思えてくる。このようなとき、単にA:Bという対立があると記述することも、また、すべてはカオスであるといって片づけることも正しくないと思う。自然言語においてはどのような対立も類推によって必ずあいまいな部分を生じてしまうが、まさにその部分こそが、さまざまな状況に対応できる表現を生み出す、言語の生きた部分であると言えるのである。
 そこで筆者は、次の二点を明らかにすることによって文法的な対立を記述しようと試みた。
1 最も典型的な対立はどのように現われるか。
2 どのような場合にその対立がくずれ、曖昧性を生じるか。
 1はその対立の性質を把握する上で最も重要な基礎となる。2については、そのいくつかの場合になぜその対立がくずれたかを考えることによって、1とは逆の面から対立の本質をかいまみることができるように思う。」
[7] ウィリアム・ラボフは、いろいろな形の食器の図を被験者に見せて、それを"cup"と呼ぶ被験者の数を調べた。その結果、ある形の容器については、100パーセントの被験者が"cup"と呼んだが、それが少しずつ変形して平たくなっていくにつれてその数は減っていき、ある時点で"cup"と呼ぶ者と"bowl"と呼ぶ者が同率になった。つまり、どこまでが"cup"で、どこまでが"bowl"であるという意味の境界線は個人差があって確定できないが、 cupという単語の意味の中心(すべての人が"cup"であると認識するもの、典型的なcup)は明らかに存在する、ということである。(『認知言語学入門』による)
[8] 筆者は『異言語間の意思の疎通について』において、相手の言語に合わせるのではなく、互いに自分の母語で話すことによって意思の疎通ができる可能性について論じた。
[9] 自然農法を提唱している福岡正信氏によれば、人工肥料を作るため、作物が必要としている栄養素について分析して調べれば調べるほど、微量成分のミネラルが抜け落ちてしまうと言う。
[10] これこそが、本当に「知る」ための第一歩である。
[11] これは般若心経の「色即是空空即是色」とも通じる。また、歌手の浜崎あゆみも、自作の歌詞の中で、反義語が同義語であることをつぎのよう歌っている。
 きっと光と影なんて同じようなもので 少し目を閉じればほらね おのずと見えるさ 喜びのうらにある悲しみも 苦しみの果てにある希望も どんなに遠く離れていても 僕らはいつでもそばにいる  全ては偶然なんかじゃなく 全ては必然なコトばかりかも知れない(Daybreakより)
[12] 微生物の世界でも同様なことが起きている。琉球大学の比嘉照夫教授が開発したEM(有用微生物群)は、作物を健康にし、収量を劇的に増やす働きをするが、それは好気姓と嫌気性という正反対の性格をもった微生物が助け合って共生することによって生じたエネルギーに因っている。狭い空間に閉じこめられたそれらの微生物は、最初は敵対しているが、やがて互いの排泄物を食べるという補い合う関係に転じる。それが爆発的なエネルギーの創造をもたらすのである。
[13] 韓国と北朝鮮ついても同様のことが言える。南北統一によって韓国の負担が増し、経済力が低下すると予測する人も多いが、それは互いに正反対の存在が敵対から協力に転じることによって生じる莫大なエネルギーを考慮に入れないからである。
 正反対の者同士の調和、それは言いかえれば陰と陽の調和に他ならない。韓国の国旗(太極旗)に見られるような太極図は、陰と陽がその極において調和することを示している。言いかえれば、互いに正反対の(敵対する)者同士は、妥協によってではなく、その極(自身を貫く)ことによって調和できる(解り合える)ということである。
 太極旗は、長年の分断によって正反対の性格を持つようになってしまった韓国と北朝鮮が、統一によって陰陽の調和を成し遂げるとことを暗示しているようだ。
 このことについては、『調和した新時代のための実践的陰陽論』を参照。
[14] ここで、「本当の相手が存在する」ということを証明する必要があるのかもしれないが、それは体験でしかわからないことである。これは私自身が自分の本当の相手に出会い、その後経験した出来事によって知り得たことである。だれしも、本当の相手に出会った人なら、このことが理解できるはずである。詳しくは『恋の悩み相談室』を参照のこと。
[15]『恋の悩み相談室』の中の『相談日記』及び『掲示板』参照。
[16] ソーシャルネットワーキングサイト「mixi」
[17] これは自分だけの問題に留まらない。互いの本当の相手はひとりしかいないのだから、一人が相手を間違えれば、その相手もそのまた相手も…というふうに、玉突き式にたくさんの人が相手を間違えてしまうことになる。つまり、自分一人の不幸が自分だけに留まらず、他人を巻き込んでしまうのである。このことも自分と他人の境界線がないことを端的に示している。


参考文献
F.ウンゲラー、H.-Jシュミット『認知言語学入門』池上嘉彦ほか訳 大修館書 1998
塩田今日子『現代朝鮮語のアスペクト』東京外国語大学大学院修士論文 1986
塩田今日子『調和した新時代のための実践的陰陽論』1996
     (http://www.geocities.jp/kyokotsm/inyouron.html)
塩田今日子『異言語間の意思疎通の可能性について』二松学舎大学論集第48号 2005 
福岡正信『無�自然農法』春秋社 1985
前田英樹『沈黙するソシュール』書肆山田1989
시오다 교코 "정반대의 성격을 가진 자들의 공존" 지금여기4-2호 미내사  서울1999
히가 데루오 "EM의 폭발적인 에너지" 지금여기4-2호 미내사 서울1999

参考Webサイト
Sun&Moonの恋の悩み相談室 http://www.k5.dion.ne.jp/~kyokotsm/


二松學舎創立130周年記念論文集
2008(平成20)年 3月1日 発行

英文題目
On the way of self-recognition and self-innovation from a linguistic point of view.


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