現代朝鮮語のアスペクト           塩田今日子
                  (東京外国語大学大学院 修士論文 1986)
目次
? はじめに
? 研究史 (一部省略)
? 現代朝鮮語のアスペクト
 1-1 序
  1-2 資料
  1-3 形態について
  2-1 ㄴ다
  2-2  어 있다
  3-1  ㄴ다:고 있다
  3-2  局面が一致する場合
  3-3 局面が一致しない場合
  3-4 アスペクトの対立を持たない場合
  3-5 まとめ
  3-6 ㄴ다とアクチュアルな現在
  3-7 その他
  4-1 고 있다:어 있다
  4-2  어 있다の選択制約
  5-1 周辺的な場合
  5-2 고 있다と어 있다の接点
  6   結論
 【註】(1)~(19)
 参考文献 ?~?
? はじめに
 まず、文法的な対立をどのように記述すべきかについての私見を述べたい。
 文法的な対立というのは、一見明らかなもののように見えるが、実はそうではない。A:Bという対立が存在するとき、ある場合には何がAで何がBであるかは誰の目にも明らかな事実である。これによって人々はそこにAとBが存在することを認識する。しかしまた、他の場合には、AであるかBであるかわからないような中間的なものがあったり、あるときにはAになりあるときにはBになるようなものが出てきたりする。そこでそのあいまいな部分を徹底的に調べてみると、ついにはもともとAとBなど存在せず、すべてはカオスであるかのように思えてくる。このようなとき、単にA:Bという対立があると記述することも、また、すべてはカオスであるといって片づけることも正しくないと思う。自然言語においてはどのような対立も類推によって必ずあいまいな部分を生じてしまうが、まさにその部分こそが、さまざまな状況に対応できる表現を生み出す、言語の生きた部分であると言えるのである。
 そこで筆者は、次の二点を明らかにすることによって文法的な対立を記述しようと試みた。
1 最も典型的な対立はどのように現われるか。
2 どのような場合にその対立がくずれ、曖昧性を生じるか。
 1はその対立の性質を把握する上で最も重要な基礎となる。2については、そのいくつかの場合になぜその対立がくずれたかを考えることによって、1とは逆の面から対立の本質をかいまみることができるように思う。
 なお、この論文はあくまでも朝鮮語の文法自体の記述を目指したものであり、日本語との対照を試みたものではない。しかし、記述の内容において、日本語を母語とするものが朝鮮語を学ぶ際に最も困難を感じる点に力点がおかれていることは否めない。
? 研究史
 この論文では、現代朝鮮語のアスペクトをㄴ다:고 있다の対立として記述する。
 まず、これまでの研究の中で現代朝鮮語のアスペクトがどのような観点からとらえられてきたか、あるいはㄴ다、고 있다及び어 있다の文法的意味についてどのような記述がなされてきたかを概観する。
 用語は全面的にもとの論文によっているため、全く不統一である。漢字語の場合はそのまま日本語に直訳し、固有語の場合は意訳した。
(中略)
 以上のように、アスペクトをどのようにとらえるかについては、さまざまな見解がある。
 文法的なものとする立場では、扱う形式が実に多様である---李鐘徹(ㄴ다-고 있다)、南(았, 았었)、Yang(고 있다-어 있다)、Lee(어 있다-고 있다,-더-, 고 있더-)、崔東権(어 버리다, 어 내다-고 있다, 어 가다, 어 오다 어 있다, 어 대다, 어 쌓다)、서は時相(tense-aspect)としてㄴ다, 고 있다, 었다, 었었다を扱い、李智涼は時相(tense+aspect)形態として、었다, 고 있다, 어 있다を扱い、権は時制は相であるとした。[1]
 張、정、李席碩珪はアスペクトを意味的なものだとしており、李南淳のように時制は時間的で相は空間的だとする説もある。신は文法的な相をAspect、語彙的な相をAktionsartと呼んでいるが記述においては両方ともいっしょくたにしている。
 動詞分類を試みた例もいくつかあるが、それぞれがさまざまな意味的基準によっているため。たとえば알다(知っている)は[+状態、+結果](油谷、)[+瞬間、+結果](정)、[+状態、-持続](서1982)、[-一点性、-動的、+完成点](李智涼)などとなる。 
 ㄴ다については、現在を表わすという意見が支配的であったが、정、서(1982)、李庸周などでは未来を表わす例にも重点が置かれており、李碩珪は非過去、Leeはactual tenseと名づけている。このほか、習慣や一般的事実、真理などを表わすことも指摘された。
 고 있다には、進行、継続、完了、既然、反復などさまざまな用語が使われているが、要するに、動作の変化の継続、結果の持続、および反復を表わすことがあることではほぼ一致しているようである。かわったところでは、瞬間的動作の前後(서1982)、第三者の意見(李辰ソプ、林)、躍動性(전-ただし具体的な根拠は述べられていない)を表わすという意見がある。김차균(1982)は暫定的、始発が開放的であり、強い現在性をもつとした。
 어 있다については、結果の持続を表わすという点において 意見が一致しており、自動詞のみにつきうることもほぼ認められている。油谷、정、崔東権は、結果の持続を表わす고 있다と相補的であるとして、これを同一視している。[2]
 結局のところ、ㄴ다:고 있다をアスペクトの対立としてみるという筆者の立場と同じものは、皮肉にも最も初期の李鐘徹(1964)しかなく、これも、「動作の叙述時間の長短」という直感的な論議に終始しているため、本質を明らかにしているとはいえないのである。
 
? 現代朝鮮語のアスペクト
1-1 序
 先にも述べたように、筆者は現代朝鮮語のアスペクトをㄴ다:고 있다の対立として記述する。
 ここで言う「アスペクト」は、いわゆるperfective:imperfectiveの文法的な対立のことである。前者は動詞の表わす状況[3]の始まりから終わりまでをひとまとまりのものとしてとらえる見方をいい、後者はそれを始まりと終わりを含まない継続中のものとしてとらえる見方をいう。これまでアスペクトの名のもとに、動詞自体の意味や局面動詞[4]などのさまざまなレベルのものが扱われてきたが、ここではМаслов(1962)に従って、すべての動詞語彙のかなり大きな部分をつつむ文法的な対立で、その対立に関して原則的に動作や変化が同一であるもののみをアスペクトと呼ぶことにする。アスペクトをperfective:imperfectiveの対立に限定するのは、この対立が最も基本的であるということが多くの学者によって認められていることに加えて、ㄴ다:고 있다の対立をこのわく組みの中で扱うことが可能だと考えるからである。
 とはいっても、ㄴ다:고 있다の対立が、perfective:imperfectiveの対立のモデルとなっているスラブ語の完了体:不完了体の対立(たとえばロシア語のсовершенныйвид : несовершенныйвид)と全く同一である、と言うのではない。むしろ両者は、のちに明らかになるように、かなり重要な点においても大きくくい違っている。しかしながら両者は、先に述べた、ひとまとまりのものとしてとらえるか、継続中のものとしてとらえるかという見方の違いであるいう最も基本的な点では一致していると言える。おのおのの言語に現われる差異は、この対立がそれぞれの言語の特質によってどのように変容するかに依っている。そして、このような立場に立てば日本語の完成相:継続相(スル:シテイル)の対立、英語の現在形:進行形の対立も同列に扱うことができると思う。[5]
 しかし、ㄴ다:고 있다をperfective:imperfectiveとして扱うことに問題がないわけではない。最も大きな問題は次の点である。
 perfective:imperfectiveを特徴づける重要な基準としてよく挙げられるものに、「おまえは何をしているか」という問いにはimperfectiveでしか答えられない--つまりperfectiveはアクチュアルな現在を表わせないという原則がある。「現在」という時間は一瞬にして過去になってしまうので、ある状況が「現在」であると感じられるためには、その状況が、現在という点と重なり合えるような線的、すなわち多少なりとも持続的なものでなければならない。このため、(非常に単純化していえば)状況を点的なものとしてとらえるperfectiveでは現在を表わせないのである。[6]
 このことは、アスペクト研究において重要な位置をしめるスラブ語で、perfectiveにあたる完了体には現在形が存在しないこと、日本語の完成相「スル」は特殊な場合[7]を除けばアクチュアルな現在を表わすことができないことなどによって裏うちされている。この原則を絶対的なものと考えるならば、朝鮮語のㄴ다は立派にアクチュアルな現在を表わすことができるので、perfectiveとしては失格である。しかしながら、すべての動詞がアクチュアルな現在を表わせるわけではないこと、その他、perfectiveと呼ぶにふさわしいいくつかの用法があることなどから、ここでは「ㄴ다はperfectiveという文法的な意味を持つのだが、ある一群の動詞と結合する場合に限って、その語彙的な意味の力によってアクチュアルな現在を表わすことができる」と考えることにする。
 以下、その理由について詳しく述べる。
 朝鮮語の「時」に関する形態については、テンスでもなければ、アスペクトでもない、すなわちtense-aspectを表わすとする主張(서1976他)があるが、これは、ある形態ひとつだけをとりあげて、それがテンスであるか、アスペクトを表わすのかを問題にしたために起こったまちがいであるといえる。
 テンスとかアスペクトとかいう概念は常に対立の中に存在するのであって、ひとつの形態の中にあるのではない
 たとえば、筆者の見解によれば、ㄴ다は었다との対立において非過去というテンス[8]を表わし、고 있다(imperfective)との対立においてというアスペクトを表わすのである。


非過去
過去


アスペクトの
対立
ㄴ다

었다
perfective
고 있다
고 있었다
imperfective

テンスの対立

 さらに一歩進んで、ㄴ다はㄹ 것이다との対立において、確実、断定というムードを表わすと言ってもよいかもしれない。しかし、だからといって、ㄴ다はテンスでもアスペクトでもムードでもない、tense-aspect-moodを表わすということにはならないのである。
 また、テンスは文法的であり、アスペクトは意味的なものだとする主張も多い(張1973他)が、筆者の考えによれば、アスペクトという名のもとではあくまでも文法的なものを扱うべきである。ただし、アスペクトはテンスにくらべてはるかに語彙的な意味からの影響を受けやすい。テンスの対立は、ほとんどすべての用言に存在する[9]が、アスペクトの対立は動詞のみに存在し、ある種の動詞ではなくなってしまうことがある。また、その文法的な意味も、動詞の意味の性質によってかなり変容する。従って、アスペクトを記述する際には、まず文法的な対立をたて、その対立および文法的意味が動詞の語彙的意味の性質によってどのように変わるかを明らかにしなければならない。
1-2 資料
 用例のための資料は次のものからとった。
1 小説 ( )内は略号、[ ]作品年代
 金承オク 乾(乾)、염소는 힘이 세다(염)、霧津紀行(霧)、夜行(夜)、力士(力)、서울 1964년 겨울(서)、手術(手)、生命演習(生)、幻想手帖(幻)[1962~1969]三中堂文庫
 黄順元 겨울 개나리(겨)、 원색 오뚜기(원)、 소리 그림자(소리)、송아지(송)、잃어버린 사람들(잃)、필목장수(필)、학(학)、소나기(소)、곡예사(곡)[1951~1967]三中堂文庫
 崔仁浩 他人의房(他)、処世術概論(処)、깊고 푸른 밤(깊)、개미의 탑(개)、模範童話(模)、술꾼(술)、黄真伊(黄)[1972~1982]民音社、他
 李文烈 젊은 날의 肖像(젊)[1981]民音社
2 シナリオ
 車凡錫 薔薇의 城(薔)
 李根三 狩猟社会(狩)
 李載賢 엘레베이터(엘)
 廬 植 父子(父)
 朴祚烈 모가지가 긴 두 사람의 対話(모)
 呉泰錫 쇠뚝이 놀이(쇠)
 李康白 結婚(結)
 尹大成 出発(出発)
 尹朝炳 건널목 挿絵(건)
 金相烈 탈의 소리(탈)
      [1957~1974]  玄岩社
 金秀賢 사랑과 진실(사)[1985]MBC
3 随筆
  전혜린  그리고 아무말도 하지 않았다(그)[1953~1963]三中堂
 李御寧 흙 속에 저 바람 속에(흙)[1975]汎曙出版社
4 その他
 東亜日報 1982.10.16 (新)
 テレビ 1984(T)ソウル
 ラジオ 1985(R)ソウル
 写真展の説明 1985(写)ソウル
 参考文献であげた論文の地の文(論)
 不十分な部分は複数のインフォーマントに聞いた。[10]
1-3 形態について
 この論文では、ㄴ다:고 있다の対立と어 있다を扱うが、基本的には終止形の陳述形及び疑問形を対象とする。
 ここでは、ㄴ다をいわゆる「現在形」(すなわち、ㅂ니다, 오, 네, 어요, 어などを含む)を代表した形として用いる。[11]もちろん子音語幹につく는다も含む。어 있다はいわゆる第?語基に있다がついた形である。고 있다と어 있다も고 있읍니다,어 있읍니다などを含むのは、ㄴ다と同じである。また、고 있다の尊敬形、고 계시다も고 있다と同等のものとして扱う。고 있다は話し言葉では구 있다になることがある。
 고 있다は고と있다の間に는, 만をはさむことができる。
○ 나는 석 잔을 마시고 곤드레가 되어서 어린애 같은 호기심으로 사내에게 이것저것 묻고만 있었다.(幻)
 資料の制約から、終止形の陳述形および疑問形以外の形を参考にしなければならない場合は、次の原則に従った。
 1 ㄴ다、고 있다、어 있다のテンス的側面を記述するときには、他の形は一切用いない。
 2 ㄴ다、고 있다、어 있다の局面について記述するときには、고 있다と어 있다については、他の形(連体形、接続形などおよび過去形)も同等に扱い、ㄴ다については、連体形-는のみを同等のものとして扱う。[12]すなわち、A하는B→B가 A한다のように考える。
 3 고 있다と어 있다の選択制約について記述するときには、他の形もすべて同等に扱う。
 2-1    ㄴ다
 おそらく、ㄴ다がアクチュアルな現在を表わし得ることが、ㄴ다:고 있다をアスペクトの対立とみなすことを妨げてきた最大の原因であろう。
○ 사람을 기다리는 거요?
아니, 기차를 기다립니다.(出)
cf.내 아들은 살아 있어….어디선가 나를 기다리고 있다. (薔)
○ 난 당신을 사랑해.(結)
○ 그래, 형님은 어떻게 지내요?
나야 뭐 그렇지.
로케트 연구는 아직도 하고 있어요?(狩)
○ 「저 학생 아나?」
나는 한(韓) 교수님이 눈짓으로 가리키는 곳을 돌아보았다.
「인사는 없지만 무슨 과(科) 앤진 알고 있죠.」(生)
○ 혼자 사세요?
네, 혼자 삽니다.(狩)
○도대체 무슨 소릴 하고 있는 거야?
  어서 이행하시기 바랍니다.(엘)
○ 으윽! 네놈 어미는 심성이 고와서, 어디 가서든지 잘 살 고 있을 게다.
내가 그걸 믿는다…(父)
○ 전 어머니 말을 이해해요.
나두 알 만합니다.
고마워요.(結)
○ 그게 어떤 종류의 휴식인지 아시오?
그건… 나도 모르오.(건)
しかし、それにもかかわらず筆者がㄴ다をperfectiveとみなすのは、次の理由による。
1 ㄴ다はかなり自由に[13]アクチュアルな未来を表わすことができる。[14]このとき動詞の表わす状況は、ひとまとまりのものとしてとらえられていることは明白である。これに対し、고 있다は決して未来を表わすことがない。[15]
○ 지금 몇시오?
한 시.
몇 시에 끝나요?(건)
○난 한 바퀴 돌고 여관으로 갑니다.(서)
○ 그럼 저녁에 만나요.(엘)
○ 이 돈은 저승에 가서 꼭 찾는다.(쇠)
○ 배가 고파서 뭘 먹으러 나왔다. 그래, 뭘 먹어? 밥도 먹고, 흙도 먹고, 땅도 먹고, 하늘도 먹고, 너도 먹고, 무엇이든지 다 먹는다.(쇠)
2 小説の地の文にもㄴ다がよく使われるが、ㄴ다を用いることによって、物語が先に進む-すなわち、出来事が継起的に並ぶことができるのは、動詞の表わす状況がひとまとまりのものとしてとらえられているからである。状況の始まりと終わりを含まない継続中の部分だけを表わす形式を用いれば状況はその時点でいくつでも重なって足踏みをしてしまい、物語は視点の飛躍なしには先に進むことができない。このような形式は小説の地の文の中の背景として用いられるのである。[16](下線部)
○ 그는 될 수 있는 한 불평을 하지 않으려고 이를 악물고 부엌 쪽으로 간다. 부엌 석유 곤로가 불붙고 있다. 그는 투덜거리면서 그 것을 끈다. 그리고 천천히 소파 쪽으로 왔을 때, 그는 재떨이에 생담배가 불이 붙여진 채 타고 있음을 발견한다. 그는 반사적으로 주위를 둘러본다. 그는 엄청난 고독감을 느낀다.(他)
○ 그러다가 소녀가 물속에서 무엇을 하나 집어낸다. 하얀 조약돌이었다. 그리고는 훌 일어나 팔짝팔짝 징검다리를 뛰어 건너간다. 다 건너가더니만 홱 이리로 돌아서며,「이 바보.」조약돌이 날아왔다.(소)
3 たとえば誰かが手紙を書いている写真について説明する場合には、이 사람이 편지를 쓴다.とは言えず、쓰고 있다と言わなければならない。つまり、写真のように、特に継続中の状況の一部だけをとり出したものを表現する場合には、状況をひとまとまりのものとしてとらえるㄴ다は不適なのである。
4すべての動詞においてㄴ다がアクチュアルな現在を表わしうるわけではない。瞬間的な状況を表わす動詞の場合には、アクチュアルな現在を表わせないことは、정(1981)、서(1982)、李庸周(1983)でも述べられている。筆者の調査によれば、持続可能な状況を表わす動詞にも、ㄴ다がアクチュアルな現在を表わせない例があるが、このことについてはのちにふれる。
 実際に集めた資料においてㄴ다がアクチュアルな現在を表わす例はあまり多くなく、出てくる動詞も、알다,믿다,사랑하다,바라다などの心理作用を表わすものや、살다(住む)などの比較的長期にわたる状況を表わすものにかたよる傾向がある。[17]
 従って、どの動詞においてㄴ다がアクチュアルな現在を表わしうるかを調べるためには、かなりの部分をインフォーマントに頼らざるを得なかった。その差、インフォーマントはしばしば、「ㄴ다でも言えるが、고 있다のほうがもっと良い」とか、「고 있다のように意味のはっきりする言い方があるのに、どうしてㄴ다を使う必要があるのか」という反応を示した。
 同じ意味を表わせる二つの形式がある場合、あいまいなものより意味が明確なものの方が好まれるのは自然な流れである。それゆえ、今後、アクチュアルな現在を表わす場合に고 있다が使われる傾向はますます強まるのではないかと予想される。
 以上の理由から、ㄴ다は文法的には状況をひとまとまりのものとしてとらえる見方、すなわちperfectiveを表わすが、持続可能な状況を意味する動詞の場合は、その語彙的意味の影響でそのまとまりが引きのばされ、発話時をまたぐ-すなわちアクチュアルな現在を表わすことができるようになると考える。[18]
          ㄴ다     ㄴ다
           ○  →   ⇔
                ……・……→ 時間
                 発話時
2-2 어 있다
 筆者は、어 있다をアスペクトの対立の外にあるものと考える。
 今まで多くの学者が述べているように、어 있다は動作や変化の結果の持続を表わすが、それは全く不変的、静的な状態であって、このような状況に関しては、perfective:imperfectiveの対立をたてることは難しい。朝鮮語においては、語幹+어 있다という均一の形式によって表現されるので、さまざまな形式的手段によっているロシア語のようにある動詞のペアが真のアスペクトの対立であるのか語彙的な差異があるのかを問題にする必要がないように見える。しかしながらあとでも述べるように、어 있다の表わす局面は、ほとんどの場合においてㄴ다の表わす局面とは異なっている[19]ので、ㄴ다:어 있다の対立を厳密な意味でのアスペクトの対立ということはできないのである。
 また、もしも、어 있다がアスペクトの対立のなかにあるとすれば、それは一体、perfectiveなのか、imperfectiveなのか? 動作や変化の結果に関しては、その状況を継続中のものとしてとらえる見方であるから、imperfectiveのようでもあるが、動作の変化そのものに関しては、ひとまとまりのものとしてとらえているから、perfectiveであるともいえる。
 さらに、어 있다はその分布が一部の自動詞に限られており、動詞の語彙のかなりの部分をおおわなければならないという条件を満たしていない。
 ゆえに、筆者は어 있다をアスペクトの対立の外にあるものとして扱うが、それにもかかわらずこの論文の中で大きく扱っているのは、次の理由からである。
 1 고 있다、어 있다ともに日本語では「…している」と訳せる場合が多く、日本語を母語とするものにとって、このふたつの使い分けが困難であるため、その違いを明らかにする必要があること。
 2 고 있다と어 있다がほとんど同じ意味を表す場合があり、어 있다がアスペクトと隣接した領域に属していると考えられること。
 なお、筆者の考えでは、어 있다はperfectiveと呼ばれるものに近く、었다ととりかえてもさほど意味が変わらないことがある。
○ 어머니는 길 건너편에 있는 내과병원의 하꼬방 같은 입원실로 옮겨 가셔서 그 입원실의 우리 집 쪽으로 향한 벽만 바라보며 누워 계신다. (염)
○ 「지금 집에 아버지가 앓아 누웠다. 벌써 한 반년 된다.」(학)
 従って、어 있다はアスペクトとテンスの中間に位置していると言うこともできる。
3-1 ㄴ다:고 있다
 ㄴ다と고 있다の対立については、これまでの研究から次のことがわかっている。
 ㄴ다はアクチュアルな現在、アクチュアルな未来および習慣的事実、一般的な事実を表わす。
 고 있다はアクチュアルな現在、習慣的事実を表わす。
 このことについては서(1976)が詳しい。서(1976)では、ㄴ다は表わせるが고 있다は表わせない意味として、一連の事件、履行的現在、未来を挙げている。一連の事件とは事実を羅列した言い方で、
  환자는 진찰권을 산다. 진찰실로 들어가 기다린다. 다음에는 의사가 시키는 대로 자세를 취한다.
という例が挙げられているが、これは現実の時間の流れと離れた-すなわち、テンスを離れてアスペクトの意味だけが強調された用法で、先に挙げた小説の地の文や、ト書きなどにも通じるものであると思う。履行的現在としては、
   나는 당신에게 도와 드릴 것을 약속합니다.
という例が挙げられている。筆者は、감사합니다. 축하합니다. などのあいさつもこれに類するものと考えてよいと思う。
 고 있다が未来を表わせないことはかなり厳格な原則であり、このことはしばしば言及された。(서1976、김차균1982)。しかし、この論文では対象としない命令形では、未来を表わすことがある。
○「눈을 감고 있어 얘.」금례가 빠르게 말했다. (手)
 また、当然のことながら、ムード的な要素がつけ加われば未来を表わすことができる。
○ 「난 평생 혼자만 알고 있을래. 남한테 부끄러워서가  아니야.」(手)
習慣的な事実はㄴ다、고 있다ともに表わせる。
○ 나는 매일 학교에 간다.
○ 나는 매일 학교에 가고 있다.
 一般的な事実としては、よく次のような例が挙げられる。
○물은 100℃에 끓는다.
○ 지구는 태양을 돈다.
 この後者を、지구는 태양을 돌고 있다.と言いかえることができることから、고 있다も真理を表わしうると主張する人もいるが、これはまちがいである。지구는 태양을 돌고 있다. と言えるのは、今、現実に地球が太陽のまわりをまわっているからである。もしも前の例を끓고 있다にかえれば、今現在水が沸騰していることを表わす文になってしまい、水の属性を表わす文ではなくなる。고 있다が習慣的な事実を表わせるのは、発話時をまたぐ「現在」がその中に含まれているからであり、고 있다は普遍的な性質や属性を表わすことはできない。このようなことからも、고 있다は김차균(1982)の言うように、「現在」にかなり執着していることがわかる。
 なお、アスペクトを研究する上で、最も基本とすべきなのは、アクチュアルな現在や未来を表わす場合である。習慣的な事実を表わす場合には「反復」の要素がはいりこむために、perfective:imperfectiveという見方が純粋な形で現われないことが多いからである。しかしながら、習慣的な事実が反復なのかどうかを、区別できない例も多い。たとえば、회사에서 일하고 있읍니다.と회사에 근무하고 있읍니다.はほとんど同じ内容を表わしているのに、前の例は反復であって後の例はそうでないとも言えるのは、근무하다という語彙自体がもともと習慣的な動作を表わしているからである。
 ここでは、ㄴ다と고 있다の表わす局面についてさらに詳しく検討することによって、ㄴ다:고 있다の対立の本質にせまりたい。
3-2 局面が一致する場合
3-2-1   먹고 있다
 前にも述べたように、典型的なアスペクトの対立は、それに関して動作や変化が同一でなければならない。筆者はそれを、動作や変化の局面の一致も含めて考える。
 朝鮮語においても、動詞語彙のもっとも広い部分で、この局面の一致がみられる。これはすなわち、고 있다が動作や変化の継続を表わす場合であり、고 있다の最も基本的な用法である。
○ 도중에 내가 지금 우리는 어디로 가고 있느냐고 물었더니(力)
cf.너 지금 어디 가니?
○ 「국어를 가르치고 있읍니다.」(霧)
○ 잠결에 목이 선뜩거려 눈을 뜨면 그늘이 내린 속에 송아지가 혀로 핥고 있는 것이다. (송)
○ 나는 남포동 예의 열 아홉 식구가 들어 있는 방 한구석에서 아내의 말을 듣고 있었다.(곡)
○ 나는 기도하듯이 손을 모으고 다락방으로, 지옥으로 올라가고 있는 한 사도(使徒)의 순결한 모습을 바라보고 있었다.(生)
○ 「그 사람들, 지금 뭘하고 있을까?」
 「자고 있겠지 뭘, 아우것도 모르고 자고 있을 꺼야.」(手)
○ 때마침 단정학 두세 마리가 높푸른 가을하늘에 큰 날개를 펴고 유유히 날고 있었다.(학)
○ 「저 여자가 누구요? 왜 가만히 보고만 있소?」(젊)
○ 괴로운 내 마음도 울고 있어요.(탈)
○ 대기권을 벗어나고 었어요. 태양이 점점 가까이 오고 있어요. (엘)
○ 그레요! 엄마는 질투하고 있는 거예요!(薔)
○ 누나의 음성은 무서움으로 떨고 있는 듯했다.(염)
○ 네? …저희들은 四三에 살고 있어요.(狩)
○ 뭘하구 계세요?
딤. 저어 내 재산이 얼마쯤 될까, 그걸 생각하고 있었읍니다.(結)
○나는 누나가 나를 불러서 데려가 주었으면 하고 바라고 있었다,(乾)
○ 간단히 쓰겠읍니다. 사랑하고 있읍니다.(霧)
○ 자신의 얼굴을 잊어버리고서 무엇을 느끼고 있단 말이요?(탈)
○ 나를 알아 보겠느냐?
알고 있읍니다.(탈)
○ 「학교 일로 만나자고 하면 될 거야. 뭐 윤희 누나는 형을 믿고 있으니까…틀림없이 나올 거야.」
○ 이모댁으로 돌아와서 저녁을 먹고 있을 때, 나는 방문을 받았다.(霧)
 알고 있다や느끼고 있다が結果の持続を表わすという主張はかなり多い(油谷1978、정1981、林1982)。これらが動作ではなく内面の状態を表わしているため、먹고 있다(食べている)とは同列に扱えないと考え、知った結果や感じた結果の持続であるとみなしているのであろうが、ㄴ다の局面との関係からいえば、알고 있다と먹고 있다を区別する必要はない。すなわち、両方ともㄴ다と고 있다の局面が一致しているからである。[20]
 알다と먹다を区別しうるのは、고 있다に関してではなくて、むしろㄴ다に関してである。先に、ㄴ다はかなり自由に未来を表わすと書いたが、알다や느끼다は自由に未来を表わすことができず、-면(条件節)や-게 되다(…になる)を必要とする点で먹다と区別される。[21]
○ 느끼게 돼요.
느낀다구!(乾)
3-2-2   앉고 있다
 고 있다が「継続」を表わすからには、ある程度の時間的な幅を必要とする。従って、ごく短時間で終わってしまう動作や変化を表わす場合には、고 있다を使う例がほとんどなくなってしまう。
 たとえば、앉고 있다(すわりつつある)、서고 있다(立ちつつある)、눕고 있다(横になりつつある)のような例は論文の中に出てくるだけで、実際の用例は皆無に近いと言える。このような場合、앉고 있다という表現はあるというべきか、ないというべきか?
 結論からいえば、この表現は、実際にはほとんど使われないが、特殊な場合には可能である。たとえば、人が中腰になっている写真について、이 사람이 앉고 있느냐, 서고 있느냐?と聞くことができる。나진석(1972)によれば、앉고 있느냐は高速度写真を見ているようだという。このような場合に、고 있다はㄴ다の表わす局面を拡大して表現しているといえる。
  さらに、「瞬間的」という概念について、もう少し説明したい。たとえば불을 켠다.(電気をつける)が瞬間的な動作だとする主張がいくつかある(油谷1978、서1982)が、たとえ電気がつくのは瞬間的だとしても、켠다がそれをつける側の動作に焦点をあてている以上、それは完全に瞬間的なものとはなり得ないのである。ゆえに、불을 켜고 있다は、たとえその表現を使用する場面が極端に少ないにしても、立派に一回動作の継続を表わすことができる。このように、今まで瞬間的な動作を表わすとされてきた他動詞のなかには、実は真の意味において瞬間的でないものがある。[22]
 このように、ㄴ다が表わす局面が真に瞬間的なものでない限り、고 있다はそれを拡大して継続中のものとしてとらえることができる。
3-2-3 때리고 있다
 短時間で終わってしまう動作を表わす動詞のうちで、깨다(割る、くだく)、던지다(投げる)、때리다(なぐる)、차다(ける)、などに고 있다がつくと、多回動作を表わすのが普通である。これももちろん、前と同じ理由で、ごく特殊な場合には、一回動作を拡大して表わすことも不可能ではない。これに対し、ㄴ다は一回動作についても多回動作についても、それらをひとまとまりのものとしてさし出すことができる。
 この「多回動作」は同一主体による比較的短時間内での動作のくり返しで、それ自体をひとつの動作とみなしうるものを指し、のちに述べる「反復」と区別して使うが、実際にどこまでが「多回動作」で、どこからが「反復」であるか明確に区別するのは不可能である。
3-3 局面が一致しない場合
3-3-1 가지고 있다
 これまでの研究でも明らかにされているように、고 있다は主に他動詞において、ㄴ다の次の局面を表わすことができる。すなわち、動作や変化の結果の持続を表わすことができる。そしてそれは、動作や変化がその主体自体に何らかの変化をもたらす場合に限られる。
○「전 혈액혁에 대해서 이상한 믿음을 가지고 있어요.」(霧)
○김군! 담배 갖고 있나?
  네? 담배요? 저 담배는 못 피윱니다. (狩)
○그는 지금 아버지를 만나고 있다.[23]
○그 사람은 선생님을 뵙고 있읍니다.
○이미 나는 형기와 나와의 관계를 깨닫고 있었다.(幻)
○나의 광적인 시직욕도 유전 문제는 별도로 생각하더라도 결국 아버지가 내 의식의 심층에 자리잡고 있었던 까닭에 그렇게도 커다란 환희와 인내와 노력을 경주하고 수행할 수 있었던 것 같다.(그) (自動詞)
 これらの例では、가진다, 만난다, 뵙는다, 깨닫는다, 자리잡는다という局面はそれぞれ全くの点であり、それを고 있다で拡大することはできない。つまり、これらの動詞は、例文に現われている意味で使われる場合には、動作や変化の継続を表わす고 있다の形式をもつことができず、結果の持続を表わす고 있다のみをもつのである。
 しかし、次のような例は고 있다がㄴ다の局面とその次の局面の両方を表わすことが可能であり、文脈によってそのどちらかが選択される。ただし実際に集まった文例のほとんどはㄴ다の次の局面。すなわち結果の局面を表わすものであった。多分これは、動作や変化の局面よりも結果の局面のほうが実際に継続しうる時間がはるかに長いことによるのであろう。(二重下線は動作の継続)
○베트남전선으로 가는 군인들이 군함의 갑판 위를 새까맣게 덮고 있었다.(夜)
○등뒤에는 큰 리본을 매고 있었고 머리는 굉장히 파마를 해서 토인용 가발을 쓴 것처럼 보였다.(処)
○끈을 매고 있는 중이다.(사)
○가죽끈으로 구두를 다리에 칭칭 얽어 매어서 신을 신고 있다기 보다는 신을 다리에 붙들어 매어 놓은 듯했다.(乾)
○섬돌 위에 놓인 신발을 신고 있을 때 형의 몰소리가 내 등뒤에서 들려 왔다.(乾)
○당신 내 얼굴은 어떻게 생겼는지 알아요? 외구 있어요?(사)
○붉은 색의 얇은 쉐타를 입고 있었고 하얀 스커트를 입고 있었다.(霧)

 次のような動詞の場合は、고 있다がㄴ다と同じ局面を表わすのは不可能ではないが、現実にはほとんど例がなくなってしまう。これは3-2で述べた理由と同じ根拠による。
○가마탄 마님이 조용하게 눈을 감고 있다.(写)
○낮잠을 자는 동안 나는 벽에 얼굴을 바싹 대고 있었던 모양이다.(力)
○형주는 사내가 손짓을 과장하여 가리키고 있는 차도를 보는 대신 사내가 손에 들고 있는 서류용 봉투를 보았다.(夜)
○미선 눈 말똥말똥 뜨고 있고 (사)
○왼쪽에 장죽을 물고 있는 사람은 군부대신을 역임하였던 윤웅렬.(写)
○머리칼이 긴 여자는 커다란 곰 인형을 부둥켜안고 있었다.[24] (깊)
○차라리, 사내가 여자에게 말하고 있는 것은 여자의 손목을 잡고 있는 그의 손을 통해서였다.(夜)
○그러자 미영이는 깜짝 놀라서 울음을 왓 터뜨리더니 그만 무안해진 내가 손을 풀자 느닷없이 자기가 쥐고 있던 하얀색 크레용을--분명히 하얀색이었다--내게 내밀며,(乾)
 このような、結果の局面を表わすことができるのは、あくまでも主体の位置、姿勢、外見、 内面その他に変化が起こる場合に限られるので、同じ動詞でも対象語によって結果の局面を表わせる場合と表わせない場合がある。
○그는 손을 감추고 있다.(結果)
○그는 지갑을 감추고 있다.(動作)
○이 여자는 자신의 그늘진 과거를 현재의 남편한테 감추고 있음이 분명하다는 생각이 머리에 떠오름을 어찌할 수 없었다. (원)(この場合は動作と結果が融合してしまっているといえる)
○그 아이는 사뭇 아이들의 넋이 빠진 백치 같은 모습이 가소로와 죽겠다는 듯한 표정을 짓고 있었다.(模)(結果?)
○그는 작년부터 농사를 짓고 있다.(動作)
○무릎 위에 팔을 놓고 있다(結果)
○책상 위에 책을 놓고 있다.(動作)
○시체는 이제 괴로운 표정을 씻고 입가에 웃음을 싣고 있었다.(乾)(結果)
○배에 짐을 싣고 있다.(動作)
○나는 몸에서 힘을 빼고 있었으므로 버스가 자갈이 깔린 시골길을 달려오고 있는 동안 내 턱은 버스가 껑충거리는 데 따라서 함께 덜그럭거리고 있었다.(霧)(結果)
○마개를 빼고 있다.(動作)
3-3-2 도착하고 있다
 고 있다の表わす局面については、以上のふたつ--動作や変化の局面と結果の局面--はこれまでにもしばしば言及されてきたが。次に、これまであまり言及されることのなかった、ㄴ다の直前を表わす場合について検討する。(서1982参照)
 たとえば、プラットホームにはいって来る電車を見ている場面を考えてみよう。この場面について、열차가 도착한다とも열차가 도착하고 있다とも言うことができる。このふたつの文の意味は一見ほとんど違わないようにみえるが、実は微妙な違いがあるのである。
 열차가 도착한다は、ホームに電車がはいってくる前にも電車が着くことを予想して言うことができるが、열차가 도착하고 있다は目の前に電車が見えていないと言うことができない。それは、도착한다が着く瞬間を指しているのに対し、도착하고 있다がまさに今現在の状況をのべているからである。すなわち、「プラットホームにはいって来る電車を見ている」という、全く同じ状況下で発せられた文であっても、 도착한다は着く瞬間すなわち未来を指向しており、도착하고 있다は現在を表わしているのである。
 これに似た状況は、 이기다(勝つ)においても観察される。우리가 이긴다. という文は、試合の前でも、試合の最中でも、「確実に勝つ」という予想さえできれば言うことが可能であるが、이기고 있다は試合を優勢に進めている時にしか言えない。
 次の例の죽는다と죽고 있다[25]についても同じことがいえる。
○「큰일났다.」
 「........」
 「저 사람 죽는다.」
 그 아이는 가엾게도 진땀을 흘리며 허우적대면서 손을 들어 어릿광대를 가리켰다. 그러자 선병질적인 아이는 쿡쿡 나지막하게 촛농 떨어지는 소리로 웃었다.
 「속지 마라.」
 「뭐라구.」
 「저건 사기다.」
 「사기라니, 저 사람이 저렇게.....죽고..... 있는데두.」
 「저건 우리를 속이려는 악질 행위다. 속아서는 안 된다.....」(模)
 つまり、죽는다は死ぬことを予想して言っているのであり、죽고 있는데두は死につつある様を表わしているのである。
 これらの例に共通して言えることは、ㄴ다は到達点そのものを指し、고 있다はその到達点に至る過程を指しているということである。
 この場合は、結果の局面の場合のように、はっきりとふたつの局面が分かれているとは言えない。しかし、고 있다は始まりと終わりを含まない過程のみを表わすために、到達点をそのうちに含めることはできないので、ㄴ다完全に一致することはなく、事実上その直前を表わすことしかできないのである。
 到達点のみを意味するこれらの動詞以外でも、変化を表わす自動詞においては似たような現象が見られる。
○종이가 마르고 있다.--過程に注目
○종이가 마른다.--乾くところに注目
 これと反対に、始発点を表わす動詞시작한다の場合は、시작하고 있다が始発点の直後を表わす。
○그는 소설에 열중하기 시작하고 있는 자기를 발견했다.
 次の例は、霧津という場所の境界線に立っている看板について描写したものである。
○덜컹거리며 달리는 버스 속에 앉아서 나는, 어디쯤에선가, 길가에 세워진 하얀 팻말을 보았다. 거기에는 선명한 검은 글씨로 <당신은 무진읍을 떠나고 있읍니다. 안녕해 가십시오.>라고 쓰여 있었다. 나는 심한 부끄러움을 느꼈다.(霧)
 これも、おそらく떠난다(離れる)時点の直後を表わしているのであろう。
 
 以上のように、고 있다-ㄴ다の対立は、고 있다が、短い時間に行われる動作については、拡大し、点的な状況の場合はその直前直後を拡大するなどの力を持つために、ほとんどの動詞語彙をおおいつくすことができる。
3-4 アスペクトの対立を持たない場合
3-4-1 결석한다
 고 있다の形式をとることができない--すなわちアスペクトの対立を持たない動詞には次のようなものがある。
 결석한다(欠席する)、겁난다(怖い思いがする)、고장난다(故障する)、남는다(残る)、다친다(けがをする)、닮는다(似る)、달린다(…による)、빵꾸난다(パンクする)、반짝한다(きらっと光る)、지친다(くたびれる)、화난단(腹が立つ)…
 だいたい、具体的にㄴ다の局面を考えることができないもの、抽象的な関係をあらわすもの、拡大すると意味がなくなってしまうような瞬間的な状況を表わすものなどが多い。겁난다と화난다[26]はそれぞれ、対をなす動詞、겁낸다(恐れる)と화낸다(おこる)を持っており、겁낸다と화낸다は고 있다の形式をとることができる。
 これらの動詞の多くは、同一主体による反復さもなくば異なる主体による反復を表わす場合にのみ、고 있다の形式をとることができる。
○요새 많은 학생들이 결석하고 있다.
○여기서 많은 사람들이 결혼하고 있읍니다.
 アスペクトはふつう一回の動作や変化において典型的に現われる。なぜならば、一回の動作や変化ならばperfective:imperfectiveの対立がははっきりしているが、動作の変化の反復の場合は、個々の動作や変化に焦点をあてているのか、全体を連続としてみているのかがはっきりせず、perfective:imperfectiveの対立が不分明なためである。
 ゆえに、アスペクト論においては、反復は一回の動作や変化の継続とはレベルが異なるものとして扱う必要がある。[27]反復の例が存在するのに、普通インフォーマントが결석하고 있다のような言い方はしないと主張するのもそのためである。しかし、3-1でものべたように、中には反復なのかあるいは反復全体を一回とみているのかさだかでない例も多い。
3-4-2 보인다、둘러싸고 있다
 時間の流れの中での動きや変化がない、恒常的な状況を表わす場合にもアスペクトの対立がなくなる。
 たとえば、「문 밖에 잠수교가 보인다.」というのはある映画の題名であるが、これは 잠수교という橋が見えるマンションの一室を舞台にした物語である。このような場合には、문 밖에 잠수교가 보이고 있다と言うことはできない。
 同様に、낯을 가린다(人見知りをする)や、술을 잘 마신다(酒のみである)というような性格を表わす表現でも、고 있다の形式を使うことができない。
 これらの場合に、もしもあえて고 있다の形式を使うとすれば、문 밖에 잠수고가 보이고 있다の窓はマンションの窓ではなくて動く列車の窓になり、낯을 가리고 있다は普段人見知りをしない人がどういうわけかそのときに限って人見知りをする人のような態度をとっていることを表わす表現になり、술을 잘 마시고 있다はいつも飲まない人とがその日に限ってたくさん飲んでいるというような意味を表わすことになる。
 これに似て、고 있다が限定の意味を表わす場合がほかにもある。
○그 문제만 해결이 안된다.
○그 문제만 해결이 안되고 있다.
 前者は、その問題の解決の可能性はないように思われていることを表わし、後者はその問題がいずれは解決すべきものであることを表わしているように思われる。次の모르고 있다(知らないでいる)も、いずれ知るべきであるといったニュアンスを含んでいるように思われる。
○다행이다. 아직 아무도 모르고 있었다.(乾)
○글쎄요라니, 비서실에서 사장님 행선지도 모르고 있어요? (사)
모르구 있는 거 괜히 알게 할 필요 없어요. (사)
○자기만 모르구 있었다는 게 좀은 불쾌할 수도 있겠지. (사)
○그런데 한가지 이상한 것은 그뒤 내가 여러가지로 알아보아도 서노인에 관한 한 몇가지 공통적인 사실 외에는 강진사람들조차 잘 모르고 있는 점이었다. (젊)
 もちろん、いずれの場合も、고 있다の形式を使わずに言うこともできるが。
 보인다、낯을 가린다、잘 마신다、の例では、고 있다の形式が欠けていたが、逆にㄴ다が欠けている例もある。これらはすべて、結果の局面を表わす고 있다の派生的な用法で、主体が全く動かないものの場合である。
○동대문의 본건물은 집채만한 크기의 돌로 된 축대 위에 세워져 있는 것인데 축대의 높이는 육 미터 남짓 되어 보이고 그 축대에서 시작되어 역시 커다란 돌이 쌓여 이루어진 성벽이 건물을 반원형으로 둘러싸고 있다.(力)
○우리 집은 비교적 높은 지대에 자리잡고 있다.[28]
○야쟈수 나무들은 그 공을 방해하는 농구 선수들처럼 막아서고 있는 것처럼 보인다.(깊)
3-5 まとめ
 以上、ㄴ다:고 있다の対立を、局面を中心に解き明かしてきたが、これらのことをまとめると、次のように結論づけることができるように思う。
 ㄴ다は常に動作や変化そのものを指す。それは真に瞬間的な点を表わすこともできるし、時間の流れをはずれた属性を表わすこともできる。つまり、その動詞の意味する状況に従って自由に伸び縮みし、現在を表わす場合もあるし、未来を表わす場合もある。これに対し、고 있다の関心事は常にある幅を持った現在である。そして動詞の意味する状況が短すぎる場合は拡大し、長すぎる場合は限定して、常にある一定の幅を保つ。고 있다の表わす局面はかなりの割合においてㄴ다と一致するが、必ずしもそれに固執せず、ㄴ다の周辺を表わすこともあり得る。[29]
3-6 ㄴ다とアクチュアルな現在
 ㄴ다がアクチュアルな現在を表わせるのは、ㄴ다と고 있다の局面が一致しうる場合である。すなわち、먹고 있다および때리고 있다が多回的な動作を表わす場合である。それに、もちろん、보인다のような場合もアクチュアルな現在を表わす。これ以外の場合には、ㄴ다はアクチュアルな未来か、一般的な事実しか表わせない。このことは정(1981)がのべていることとほぼ一致する。
 しかしながら、고 있다と局面が一致する場合のㄴ다がすべてアクチュアルな現在を表わせるわけではないのである。インフォーマントによれば、次のような場合には고 있다をㄴ다ととりかえることができないという。
○수출은 지금 점점 감소하고 있다.
○서울 모습은 요새 많이 달라지고 있다.
○회의에서 지금 어려운 문제가 다루어지고 있다.[30]
 このような例は、主に自動詞や受動態にいくつかみられる(最後の例は能動態にすればㄴ다もアクチュアルな現在を表わすことができる--회의에서 지금 어려운 문제를 다루어요.)。
 このように、ㄴ다と고 있다の局面が一致する--すなわち継続可能な状況を表わす場合においてもㄴ다がアクチュアルな現在を表わせない例があることは、ㄴ다が文法的にはperfectiveであって本来はアクチュアルな現在を表わす機能を持っていないことを裏づける根拠のひとつになり得るであろう。例にあげた自動詞や受動態の動詞は語彙の意味の力が弱いため[31]、文法の力を押し切ってㄴ다の意味を広げることができないのである。
3-7 その他
 ㄴ다と고 있다の局面の関係は、基本的にはこれまでにのべたもの以外はない。しかし例外のように見えるものもいくつかあるので、ここでそれについて説明する。
[動詞の意味の派生によるもの]
○아직까지 문을 열고 있는 다방이 있을 겁니다. 갑시다.(夜)
 この例の열고 있는は具体的に戸を開ける局面とは全く関係がないが、これは문을 열다が「営業する」という意味を表わしているためである。従って、この例は次のように言いかえられる。
○아직까지 문을 여는 다방이 있을 겁니다 갑시다.
 このような派生にはいろいろな場合があり得るであろう。
[고と있다の間に文法的な切れ目があるもの]
○형섭 신중해야 해.
 효선  (보며)
 형섭 문 잡그구 있어. (命令形) (사)
 かぎをかけることは主体に何の変化ももたらさないのでこのような言い方はできないはずであるが、インフォーマントによればこの場合は잠그구と있어の間に文法的な切れ目を感じるという。
[書かれたもの]
○<여자가 사랑이라는 말 밑에서 이해하는 것은 완전한 헌신, 육체와 영혼의 전혀 고려도 보류도 없이 하는 헌신이다>라고 니이체도 말하고 있다. (그)
○그는 이론은 그대로 답습하면서 명칭만 바꾸고 있다.
○답장은 곧 왔다. 벌써 오래 전부터 나에게 비난이나 충고하기는 단념한 형은 지극히 담담하게 쓰고 있었다. (젊)
○기록은 단 삼초만에 모든 것이 끝났다고 전하고 있읍니다.(T)
○저자는 논문 속에서 그것이 옳다는 것을 증명하고 있읍니다.
○그의 수기는 여기서 끝나고 있는데 아마 그 눈이 내리는 벌판을 건너오긴 했던 모양이다.(幻)
 ニーチェはこの例文が書かれた時点では生きてはいなかったし、「형」はその時点では手紙を書き終わっていた。最後の끝나고 있는데は普通なら終わりつつあることを表わすのだがここではすでに終わっている。これらはまるで、日本語の「彼は若いころ大病をしている」のように過去のテンスに近い意味を表わしているように見えるが、実はそうではない。これらは、著作や論文や手紙や記録や手記など、書かれたものの内容についての述べる時のみ可能なのである。書かれたものは、常に同じ主張をし続けるからであろうか。
[人称にかかわる場合]
 林(1982)に説明されている아버지는 돌아기시라고 생각하고 있다/생각한다.の例については、人によっては異論もあるようだが、このほかにもㄴ다が一人称において用いられ、고 있다が三人称において用いられる例をいくつか挙げることができる。
○그 지하실에는 곰팡이와 거미줄이 쉴새없이 자라나고 있었는데 그것이 내게는 모두 그들이 가진 귀한 재산처럼 생각된다.(生)
○그것이 그에게는 ....처럼 생각되고 있다.
부탁해요.(相手にたのんでいる)
부탁하고 있어요.(第三者が)
 これは、ㄴ다が動詞の表わす動作や変化そのものを指し、고 있다よりも動詞の意味に密着しているので、主観的なニュアンスを持つからではないだろうか。
4-1 고 있다:어 있다
 어 있다は一部の自動詞と結合し、動作や変化の結果の持続を表わす。従って、局面はㄴ다の次の局面で、これが3-3-1の고 있다の場合に似ていることはしばしば指摘された。
 어 있다は結果の局面を継続中のものとしてとらえるのであるから、状況の見方は고 있다と同じである。従って고 있다と同じように現在を表わし、未来を表わすことはなく[32]、小説の地の文に用いられれば背景を表わすことになる。ただし、고 있다と同じように、命令形では未来を表わしうる。
○「저 방에 가서 염소 그림이나 그리고 엎드려 있어. 어서 가.」(乾)
○무슨 크나큰 음모라도 꾸미듯이, 얘 넌 나가 있어, 하고...(乾)
 고 있다と어 있다の両方をとり得る動詞においては、고 있다が動作や変化の継続を表わし、어 있다が動作や変化の結果の持続を表わすのが最も典型的なパターンである。
○모습의 끝은 안개 속으로 사라지고 있었다.(霧)
○혹은 그 빈민가가 파견한 척후인지도 몰라,라고 나는 생각하여 나는 그 빈민가에 대하여 요 며칠 동안 지니고 있던 죄의식 비슷한 것이 사라져 있음을 깨달았다,(力)
○그 날 아침엔 이슬비가 내리고 있었다.(霧)
○우리는 거리로 나왔다. 거리엔 어둠이 내려 있어 거리의 상가는 불을 밝히고 있었다.
○그리고 그 피리의 곡(曲) 음률 하나하나가 현란한 비늘이 되어 자라고 있었음을 의식한다.(黄)
○여수의 여관에서 이후로는 한번도 면도를 하지 않았던지 수염이 가난뱅이답게 자라 있는 그의 죽은 얼굴을 들여다보며....(幻)
 고 있다を使うときには、를または로という体言語尾が使われ、어 있다を使うときには에が使われるというパターンを示す動詞がいくつかある。主に移動を表わす動詞である。[33]
○도중에 내가 지금 우리는 어디로 가고 있느냐고 물었더니(力)
○이젠 방 가 있는 형을 우렁찬 목소리로 불렀다.
○「서울보다는 고향에 가 있는 게 낫지 않을까요?」(霧)
○효선 고개 숙여 땅 보면서 건물쪽으로 오고 있다. (사)
○오후 여섯 시 반까지는 모든 식구가 집 와 있어야 하고 저녁식사(力)
○「이쪽은 우리 모교 와 계시는 음악 선생님이시고.」(霧)
○그 여자는 계단을 오르고 있었다.(夜)
○그는 주머니에 손을 찌른채 언덕길을 오르고 있었다. (술)
○언덕에 올라 있다.
4-2 어 있다の選択制約
 어 있다をとり得る自動詞[34]は、動作や変化の結果が主体に残るものに限られる。
○내가 깨어 있을 때는 수없이 많은 시간의 대열이 멍하니 서 있는 나를 비웃으며 흘러가고 있었고, 내가 잠들어 있을 때는 긴 긴 악몽들이 거꾸러져 있는 나에게 혹독한 채찍 질을 하였었다.
○건강하던 서동호의 어미니가 머리를 싸매고 안방에 누워 있었기 때문이었다. (젊)
○짙은 잿빛 베일을 뚫고 엷게 비치던 레몬색 불빛은 언제까지나 내 마음속에 남아 있다. (그)
○개울가에 다다르기 전에 가을 하늘은 언제 그랬는가 싶게 구름 한점 없이 쪽빛으로 개어 있었다. (소)
○그 때까지 나는 서씨라는 사람이 그 집에 들어 있다는 걸 알고 있지 뭇했지만....(力)
○머리맡에 총이 떨어져 있고 허리에 찬 보따리가 풀어져서 그 속에 쌌던 밥이 흘러나와 땅에 흩어져 있었다.(乾)
○히로시마는 빌딩과 공장, 그리고 푸른 숲이 적절히 정동된 시가지로 변해 있읍니다. (T)
○그 동안은  공부를 하고 있는 걸로 되어 있다.(力)
○동대문 건물 속의 음산한 마루에만, 거기에 귀신이 숨어 있는 것 같은 느낌이 자꾸 들어서, 신경이 쓰였다. (염)
○그랬더니 이쪽 개울 둑에 소녀가 앉아 있는 게 아닌가. (소)
○그는 시계를 보았는데, 시계는 일주일 전에 날짜로 죽어 있었다.(他)
 どの自動詞と어 있다が結合しうるかは、結果が残るかどうかという意味的な基準で判断するしかない。同じ動詞でも어 있다との結合が可能な場合そうでない場合があり得る。たとえば、눈(雪)ならば내려 있다と言うことができるが、비(雨)ならば言うことができない。雪は積もって残るが、雨は降り終われば水になって流れてしまうからである。次もこれに似た例である。
○도로가 꼭 자를 대고 그린 듯 정확하고 구획이 정연했으며 집의 크기도 똑같았고 재료는 모두 붉은 벽돌이 사용되어 있었다. (그)
○원자로는 인류에게 이로운 에너지로....사용되고 있죠? (사)
 れんがは建築に使われたあと建物の一部として残るが、原子炉はエネルギーとして使われても何の結果も残さないから、あとの例では사용되어 있다を使うことはできないのである。前の例で사용되고 있다を使えば建築中を意味することになる。
 次のような動詞はふつう어 있다と結合しない。
 걷다(歩く) 계속되다(続く) 굴다(振舞う) 근무하다(勤務する) 기다(はう) 날다(飛ぶ) 내리쬐다(照りつける) 놀다(遊ぶ) 다니다(通う) 달리다(走る) 드나들다(出入りする) 떨다(ふるえる) 뛰다(はねる) 반복되다(反復する) 보이다(見える) 불다(吹く) 빛나다(光る) 움직이다(動く) 울다(泣く) 웃다(笑う) 일하다(働く) 졸다(まどろむ) 지저귀다(さえずる) 진행되다(進行する) 짖다(ほえる) 회전하다(回転する)
 分解すると他動詞になる動詞もふつうは어 있다と結合しないが例外もある。[35]
 겁내다(恐れる)←겁을 내다
 노력하다(努力する)←노력을 하다
 생활하다(生活する)←생활을 하다
 야단치다(しかる)←야단을 치다
 자리잡다(位置する)←자리를 잡다
 しかしながら、어 있다と結合しないことが形の上から判断できる場合もある。すなわち、擬声擬態語+거리다、이다、대다から成る動詞および形容詞+어하다から成る動詞がそれである。
○다른 녀석은 밤마다 그러하듯 어둠이 무섭다고 칭얼대고 있을 것이다,(술)
○그렇지만 밤 하늘에서 쏟아질 듯이 반짝이고 있는 별들을 보고 개구리의 울음소리가 귀에 들려오는 듯했었던 것은 아니다.(霧)
○나는 머뭇거리고 있는 것이었다.(力)
○그 사람이 아주 술퍼하고 있어요.
 擬声擬態語+거리다、이다、대다から成る動詞はそれ自体の中に反復の意味をふくむ。
 ところで、어 있다は形容詞につくことがある。朝鮮語の動詞と形容詞は形が似ているので区別がつきにくいため、これらの形容詞が動詞化しているのだと言えないこともないが、このような例が存在することからも、어 있다はアスペクトの外にあるということが言えるであろう。
○거리는 이미 어두워 있었고 거리엔 불들이 일제히 켜졌다. (개)
○그는 우선 배가 고팠으므로 부엌 쪽으로 갔는데, 상 위에는 밥 대신 빵 몇 조각이 굳어서 종이처럼 딱딱해 있었다.(他)
배불러 있던 동안보다 몇 배는 더 피곤해요, (사)
○그이가 괜히 기분이 좋아 있는 것 같애.
○밖은 어두워 있었다. (원)
5-1 周辺的な場合
これまで、ㄴ다、고 있다及び어 있다の表わす局面について、典型的な場合を中心に述べてきた。もしも動詞の語彙のどのパターンに属するかで分類することができれば文法の記述も容易になるわけだが、実はそう簡単にはいかない。同一の動詞でも、意味の違い、主体の違いなどのさまざまな要因によって異なったパターンに属することがあり得る。また、周辺的な場合--派生的な用法や抽象的な概念を表わす場合など--においては、今まで述べてきた局面のパターン自体がくずれてしまうことがあり得るからである。
 たとえば、까먹다という動詞は、「忘れる」という意味ならば、고 있다はㄴ다の次の局面(すなわち結果の持続)を表わすが、「使い果たす」という意味ならば、고 있다はㄴ다の局面と一致する(すなわち動作の継続)。
○현재의 수출은 이미 받아좋은 신용장 까먹구 있는 거 아닙니까. (사)
 また、먹다(食べる)も、ふつうは고 있다とㄴ다の局面が一致するが、마음을 먹고 있다(決心している)という意味で使えば、고 있다はㄴ다の次の局面(結果の持続)しか表わさなくなる。
 만나고 있다は、ふつうは만난다の次の局面を表わすが、「つきあっている」という意味で使えば、만난다の局面と一致する。この場合は、反復の意味が含まれるからであろう。
○영란이 어쩌면 결혼하게 될지두 몰라. 시끄럽다.
  ....누구하구요?
  진행 중이야. 신흥 세째 아들 만나구 있어. (사)
 さらに、고 있다がㄴ다の次の局面を表わす代表のようによく例に挙げられる가지다さえも、次のような場合は両方の局面が一致してしまう。
○종종 이들 범주에 속하는 形式을 가지는 동사가 있다.
○이 단어는 나쁜 뜻을 가진다.
これらの例はいずれも고 있다を使って言いかえられる。「持つ」ものがお金とか車とか具体的なものならば、가진다と가지고 있다の局面ははっきり分かれるが、「単語が意味を持つ」ような抽象的な所有関係になると、時間の流れの中での変化がなくなってしまうために、ふたつの局面を区別する必要がなくなるのである。
 このような例は、어 있다の表わす局面についても挙げることができる。今まで述べてきたように어 있다の表わす局面は常にㄴ다の次の局面で、ふつうならば両者が一致することはあり得ない。ところ、やはり、次のような抽象的な関係を表わす場合には、両者の区別はなくなってしまう。
○즉 자기에게 속해 있으면서도 동시에 세계에 속한 것을 요구한다. (그)
○앉다, 눕다, 살다, 죽다, 여위다 등은 모두 自動詞에  속해 있다.
○시키지도 않는데 노래를 부른다는 것은 멋적은 짓에 속한다. (흙)
○이것은 미지에 속하는 문제다. (그)
ただし、속한다の方が속해 있다よりもより一般的で属性に近い感じがするのに対し、속해 있다はやや一時的であるとも言える。[36]
 動詞を分類する際の困難性は、選択制約に関しても同様にある。たとえば붙다(くっつく、つく)という動詞は、ふつうならば붙는다という局面を拡大することは不可能であり、かつ自動詞であるから、고 있다の形式はとらない動詞として分類したくなる。
○미영이네 집은 우리 집과 아주 가까운 곳에 있는데 지금은 그 집 대문에 <매가(売家)> 라는 글이 쓰인 더러운 종이 조각이 붙어 있는 빈 집이 되어 있었다.(乾)
 ところが、次のような場合には、고 있다が使える。
○미용학원이라는 간판에 불이 붙고 있었다. <원>자(字)에 불이 붙기 시작했다. (서)
つまり、붙고 있다は、主体が火ならば、「つき始めてから完全につくまで」の過程を継続中のものとしてとらえることが可能になる。
 これらのことから、アスペクトの対立がどのように現われるかを説明するために動詞を分類する際には、単に語彙だけを並べたのではほとんど無意味であることがわかるであろう。
 アスペクトの対立というのは、一回の動作や変化という具体的な平面において最も典型的に現われ、派生などによって抽象的な平面に向かうに従ってはなはだ曖昧になっていく一方で、具体的な状況を与えられれば、可能な限り意味を開拓するものだからである。
5-2 고 있다と어 있다の接点
 고 있다が動作や変化の継続を表わす場合には、고 있다と어 있다の混同はあり得ないはずである。고 있다が結果の持続を表わす場合は、他動詞に고 있다がつき、自動詞に어 있다がつくのであれば、この二つの形式の使い分けに問題はないはずである。ところが、実際はそうではない。それは、確かに、어 있다は自動詞に限られるが、結果の持続を表わす고 있다は自動詞にもつき得るということによる。さらに、前にのべたように局面の区別が曖昧になってしまう場合には、事態はますますややこしくなる。
 たとえば、次のような場合には、고 있다、어 있다のどちらを使ってもさほど違いがないように思われる。
○옛날 언젠가, 역시 이 다리를 밤중에 건너면서 나는 저 시커멓게 웅크리고 있는 나무들을 저주했었다.(霧)
○저기 웅크려 있는 사람이 누구야?
○「병을 앓아서 요 앞 병원에 입원해 있어요.」 (염)
○「오늘 낮에 제 아내가 죽었읍니다.세브란스 병원에 입원하고 있었는데 」(서)
○강선생 열대어 어항에 열중해 있다. (사)
○그는 바둑에 열중하고 있다.
○名詞의 語形이 각각 다르다는 것은 이것과 결합되고 있는  動詞의  意味的인 측면을 분명히 한다.(論)
○사실 「어찌꼴+도움풀이씨」는 두 게의 풀이씨가 매우 밀접하게 결합되어 있어서...(論)
○그 속에 놀라운 요란한 색채와 기상 청외한 착상의 그림자들이 마치 옛날 다다이슴의 한창때처럼 소심한 시민들을 질색(窒息)시키기 위한 듯이 진열되고 있다. (그)
○그래서 거기에 진열되어 있는 약병이나 상자들은 장난감처럼 귀여워 보였다.(力)
○조사의 대상이 되고 있는 제품들은 美国이 후진국 및 개발도상국에 적용하는 총2천9백49개 품목의 일반 특혜관세품목중에 들어 있어 関税을 물지 않는 것들이다.(新)
○최근 문제가 되어 있는 무역마찰에 대해서도 이것을 피하기 위해 방법을 토론하죠.(T)
○지금 생존해 계십니까? 타계했어. 꽤 되지 아마? (사)
○그 분이 지금 생존하고 계십니까?
○그 점에서는 우리는 언제나 의견이 완전히 일치해 있었고 지금도 그렇다. (그)
○제 의견은 당신의 의견하고 일치하고 있읍니다.
 しかし、実は、この曖昧さの中にこそ、両者の意味の違いがくっきり現われることもある。
 次の二つの例が表わす状況は基本的には同じである。
○....병 환자는 서른 다섯 명에 이르고 있읍니다.(R)
○....병 환자는 서른 다섯 명에 이르러 있읍니다.
 しかし、前の例では、患者はこれからも増え続けるであろうというニュアンスが含まれているのに対し、後の例では単に今の患者の数をのべるにとどまっている。
 지속되다(持続する)という動詞は、状態について述べる場合には고 있다と어 있다の両方の形式をとり得るが、行為について述べる場合には、고 있다しかとらない。
○끝난 뒤에 생긴 상태가 그대로 지속되고 있는지 따위에 대해서는 중립적이다.(論)
○그것이 동작이 끝난 결과가 지속되어 있는 상태를 뜻화고 있음.(論)
○아버지가 制止할 때까지 웃는 行為가 持続되고 있다는 것을 알 수 있고...(論)
 次の例は、고 있다でも어 있다でもさほど変わりはないが、
○그는 비애를 느낀다. 무사무사(無事無事)의 안이 속에서 그러나 비웃으면서 물건들정좌해 있다.(他)
主体が人間になると、고 있다のほうが自然であるという。
○그는 부모님 앞에서 정좌하고 있다.
 次の매달리다(ぶら下がる、しがみつく)も고 있다と어 있다が似たような文脈に現われるが、
○그 여자는 자기가 확실히 그 사내에게 매달리고 있었음에 틀림없다고 생각하게 되었다.(夜)
○넌 너를 제대루 좋아하는 사람은 밀어내구 그렇지 않은 사람에 매달려 있는 거 같애. (사)
 次の例を고 있다にとりかえると、学生ひとりひとりを見ている感じであり、어 있다ならば全部ひっくるめて静的な状態として見ている感じがするとう。
○학생들은 각자 실험에 매달려 있고 카메라 패앤하면...(사)
 次の例も、고 있다が動的--すなわち何かの行動を起こす感じであり、어 있다が静的な感じを表わす。
○그는 아이들이 무엇에 굶주려 있는가는 잘 알고 있었고..(模)
○애정에 굶주리고 있다 ( 엣센스韓日辞典)
 次の例では、고 있다がまとわりつく視線を表わすのに使われ、어 있다が地理的な位置を表わすのに使われている。
○형주는 자기 몸에 눌어붙고 있는 사내의 시선을 느꼈다,(夜)
○아시아 지도를 펴고, 태평양에 가까운 부분을 바가다 보면 어머니인 대륙의 가슴에 한반도가 마치 유방처럼 눌어붙어 있다. (흙)
 このように、どの場合にも、고 있다は動的、어 있다は静的であるというニュアンスが感じられるのである。
 次は、客観的には全く同じ静的な状態をのべる場合である。
○이 길은 여기서 구부러집니다.
○이 길은 여기서 구부러지고 있읍니다.
○이 길은 여기서 구부러져 있읍니다.
○이 길은 여기서 구부러졌읍니다.
 この四つの形式が、結局は全く同じことを表わしているというのは実におもしろい現象であるが、ニュアンスに若干の違いがある。구부러집니다と구부러지고 있읍니다は道のカーブにそって視点を動かす感じがするのに対し、구부러져 있읍니다と구부러졌읍니다は単に事実をのべている感じがするそうである。これなどは、時間的な変化を空間的な変化に転化させた例だと言うことができよう。
 次の例も、어 있다が状態をそのまま表現しているのに対し、고 있다が空間的な視点の動きを表わしているということができる。この違いは体言語尾の까지と로にも現われている。
○잔디로 덮인 방죽이 시오 리 밖의 바닷가까지 뻗어나가 있고(霧)
○시간이 됐을 때 나는 그 여자와 만나기로 한, 읍내에서 좀 떨어진, 바다로 뻗어나가고 있는 방죽으로 갔다.(霧)
 このような例を挙げれば、次の例の전개되고 있었다が単に市街地の状態を述べているのではなくて、目の前にさっと広がるニュアンスを表わしているこが理解できよう。
○내 눈 아래로 시가지가 전개되고 있었다.(乾)
 また、고 있다と어 있다の間に意味上の差異がほとんどなく、かつ動詞が에や에서を支配しない場合には、体言語尾の에を使うか에서を使うかが고 있다と어 있다の使い分けを左右することがある。
○이 문제는 모든 문법서에서 다루어지고 있읍니다.
○국어에 있어서도 수십종의 문법서에 시제가 다루어져 있는 외에...(論)
○그로 인해 많은 文法書에서 잘못 취급되고 있는 것이 사실이다.(論)
○<가난한 학우를 돕는 따뜻한 도시락>이라는 큰 활자로 찍힌 제목 아래에는 이름은 바꾸어 써 주었지만 바로 자기가 취급되어 있었고...(幻)
○時制는 모두 文法書에 골고루 取扱되어 있다.(国語文法의 研究)
 これは、場所を表わす에と에서が静、動と密接に関係していることによるのであろう。
○거기 학교가 있다.
○거기에서 회의가 있다.
6 結論
 現代朝鮮語において、アスペクトの対立とは何を指すのであろうか?
 筆者は、次のような理由からㄴ다(perfective):고 있다(imperfective)がアスペクトの対立を表わすと考えた。
 1 ㄴ다:고 있다の対立は、ほとんどの動詞語彙をおおいつくす。
 2 この対立において、動詞の意味は、多くの場合その局面に至るまで一致する。
 3 ㄴ다はほとんど自由にアクチュアルな未来を表わし、고 있다はアクチュアルな現在を表わす。また、小説の地の文では、ㄴ다によって出来事が継起的に並び、고 있다によって背景描写を表わす。これらのことから、 ㄴ다は動詞の表わす状況の始まりから終わりまでをひとまとまりのものとしてとらえる見方であり、고 있다はそれを始まりと終わりを含まない継続中のものとしてとらえる見方であることがわかる。
 4 ㄴ다がアクチュアルな現在を表わしうるのは、ㄴ다をperfectiveであるとみなす上での最大の障碍であるが、これは継続可能な状況を表わす動詞の語彙的な力でㄴ다の意味が引きのばされたためと考える。なぜならば、継続可能な状況を表わす動詞でも、受動態のように語彙的な力が弱いものには、アクチュアルな現在を表わせない場合があるからである。
 5 어 있다は、結合しうる動詞が自動詞に限られ、ほとんどの場合においてㄴ다と局面が一致しないこと、動詞の表わす動作や変化についてはperfective的な見方であり、その結果についてはimperfective的な見方であることから、アスペクトの対立からはずれて、テンスに近づいたものと考える。
 ㄴ다:고 있다の対立は次のように現われる。
 고 있다は、ㄴ다と同じ局面をすなわち動作や変化の継続を表わすのが最も典型的であり、主体に変化をもたらす動作や変化を表わす動詞(主に他動詞)の場合はㄴ다の次の局面すなわち結果の持続を表わすこともできる。また、瞬間的な状況を表わす動詞の場合は、その直前や直後を表わすこともあるが、要するに。고 있다の関心事は常にある幅を持った現在であり、動詞の意味する状況が短すぎる場合は拡大し、長すぎる場合は限定して常にある一定の幅を保つ。
 これに対し、ㄴ다は常に動作や変化そのものを指す。瞬間的な状況を表わす場合も、時間の流れをはずれた属性を表わす場合も、その動詞の意味する状況に従って自由に伸び縮みし、現在を表わす場合も、未来を表わす場合もある。
 어 있다は主体に関して結果が残る動作や変化を表わす自動詞について、ㄴ다の次の局面すなわち結果の持続を表わす。고 있다と어 있다がほとんど同じ文脈において使われる場合には、고 있다が動的な、어 있다が静的なニュアンスを持つ。
 アスペクトの対立は、一回の動作や変化という具体的な平面において最も典型的に現われ、派生や反復などによって、時間の流れを離れた抽象的な平面に向かうに従って曖昧性を帯びる一方で、具体的な状況を与えられれば、可能な限り意味を開拓する。
 これまで見てきたように。、日本語のシテイルと朝鮮語の고 있다は似ているようで実はかなり違っている。シテイルが結果の持続を表わすとき、スルと シテイルは筆者の考えによればすでに純粋なアスペクトの対立からはみ出している(すなわちスルとシテイルの局面が一致していない)。さらに、「彼は若いころに大病をしている」のような表現に至っては、もうほとんどテンスに近いように思われる。従って、スルとシテイルの対立は、基本的にはアスペクトの対立であるが、シテイルの意味の派生によってアスペクトの外に出てしまった部分も多いと言わざるを得ないこれによって、また新しく純粋なアスペクトを表わす表現(たとえばシツツアル)が必要になってくることが予想される。
 これに対して고 있다は、シテイルと比べるとまだかなり純粋にアスペクト的な部分を維持しているといえる。ㄴ다の表わす状況がどんなに瞬間に近くても、可能ならばそれと同一の局面を拡大して継続中のものとしてとらえようとする力を保っており、結果の持続を表わす場合は、シテイルよりはかなり限定されているからである。
 また、スルとㄴ다を比べてみると、こちらは逆にアクチュアルな現在を表わせるかどうかという観点から見て、スルのほうがより厳密な意味でperfective的であり、ㄴ다は状況によって変化するかなりの柔軟性を持っているといえる。
 perfective:imperfectiveの対立がある状況をひとまとまりのものとしてとらえるか、継続中のものとしてとらえるかという見方の違いであってみれば、一般的に言ってこの対立がすべての状況において均一に現われるはずのないことは明らかである。 
 この対立が最も典型的に現われるであろうと予想される動詞は、「食べる、読む、つくる」など、始まりと終わりがはっきりしていて、かつ継続可能な状況を表わすものであり、逆にこの対立が何らかの変容をきたすであろうと思われる動詞は、「愛する、思う」の始まりと終わりがはっきりしない状況や、「消える、死ぬ」などの瞬間的な状況を表わすものである。この際に、たとえば「愛する」においてはその対立が中和するのだとすれば、それにはいろいろな方法が考えられる。ひとつは、たとえばロシア語のようにperfectiveがなくなってしまう場合、あるいは朝鮮語のように、形式的には対立が残るが、意味の差異があまりなくなってしまう場合、さらには英語のように、imperfectiveがなくなってしまう場合である。この違いは、perfective:imperfectiveのどちらが有標なのか,文法的意味と語彙的意味のどちらが強いのかなどによって生ずるのではないだろうか。
 朝鮮語のㄴ다:고 있다とロシア語の完了体:不完了体において決定的に違うのは、ロシア語では完了体が有標であるのに対し、朝鮮語では不完了体が有標である点である。動作や変化そのものの名指しは、ロシア語では不完了体が、朝鮮語ではㄴ다が行なう。両者の対立の用法におけるさまざまな違いはそこから生じていると考えてよいと思う。

[1] Е.К.Гусеваは《Система видов в современном корейском языке》として、Длитёльный вид(持続体)고 있다、어 있다、어 오다、어 가다 、어 대다、Завершенныйвид(完了体) 어 버리다、고 말다、어 내다、고 나다、어 나다、어 놓다を挙げている(Заметки о способах вырожения видовых значений в современном корейском языке, Корейский язык, Сборник статей, Москва 1961)

[2] А.А.Холодович   О предельных и непредельных глаголах (п данным корейского и японского языков), илология стран Востока, Сборник статей, Ленинград, 1963 にも既に言及されている。
以上は菅野裕臣先生の御教示による。

[3] ここで言う「状況」とは、動詞の意味する動作、作用、変化、状態その他をすべてひっくるめたものである。(ただし普通名詞として使うこともある。)誤解を生じやすい場合には、「動作や変化」という表現も用いたが、これも単に動作と変化だけでなく、動詞が意味しうるその他もろもろの状況を含むものである。

[4] 国立国語研究所(1985)では、「しはじめる」「しだす」「しかける」「しつづける」「しおわる」などを局面動詞と呼び、さらに、「アスペクト的意味を実現していると思われるが、アスペクト動詞と言えないもの」として、「していく」「してくる」「しておく」「してある」「しつつある」を挙げている。
 朝鮮語ではこれに類するものに어 버리다(してしまう)、기 시작하다(しはじめる)、곤 하다(くりかえし…する)、어 가다(していく)、어 오다(してくる)、어 놓다(しておく)、어 내다(しきる)、어 두다(しておく)などがあるが、これらの形式の多くは、ㄴ다:고 있다の対立を持ちうる。
○뾰족한 종각 지붕 꼭대기에 피뢰침을 단 십자가가 맑은 겨울 하늘에 선명한 선을 드러내 놓고 있었다. (소리)
○그냥 기억에 남은 것을 이 떠오르는 대로 내맡교 두고 있을 따름이었다. (소리)
○작중 인물의 이목구비며 체격이며 옷매무새며 하는 것에 고루고루 시선을 분배하는 사실주의적 방법을 그는 애당초 외면해 버리고 있다. (黄順元 作品解説)
○마치 나의 눈이 점점 정확해져 가고 있는 듯이,(霧)
従って、これらの形式のアスペクト的性格について記述するとすれば、これらの形式とㄴ다:고 있다の対立がどうかかわっているかを記述すべきなのである。
 朝鮮語においては、用言の文法範疇は最も基本的なものが最もうしろに来る傾向があるといえる。ㄴ다:고 있다の対立も、必ずこれらの形式のあとにつくので、このことからもㄴ다:고 있다の対立がアスペクトの基本的対立であると認めることができると思う。また、連体形にあらわれる던(していた)や、는 중이다(しているところだ)のような形式もアスペクト的意味に大変近い意味を実現しているように思われるが、これらの形式は分布が고 있다にくらべてはるかに制限されているので、アスペクトの対立に参加しているとは言えない。ㄴ다:고 있다の対立は、終止形はもちろん、連体形、接続形にも、ほとんどあらゆる位置においてかなり自由に現われることができる。

[5] なお、筆者はこの対立が現実世界の知覚と無関係ではあり得ないと思う。imperfectiveの最も中心に位置するのは、まさしく話し手にとっての時間の流れにそった「現在」であり、perfectiveの最も典型的なものは、過去に起こった出来事をふりかえる見方である。この意味で、筆者はkoschmiederの「心理的現在」という考えに賛同する。(Маслов1962、山田1984による)。従って筆者は、この対立に似たものが、ほとんどすべての言語に何らかの形で存在することを期待できると思っている。

[6] 筆者は、「現在」という用語を非常に厳密な意味で使うことにする。ある文の表わす状況が「現在」であるためには、それが必ず発話時をまたがなければならない。発話時にどんなに近くても、発話時をまたげないものに関しては、直前ならば過去、直後ならば未来であるとみなす。従って、지금(今)のような副詞をともなっていれば何でも「現在」であるというような考え方はとらない。

[7] みえる、聞こえる、おもうなど。これらをアクチュアルな現在であると言うことには異論もあるだろうが、筆者は実際に発話時をまたぐ現在において存在する状況はすべてアクチュアルな現在であると呼ぶことにする。なお、完成相、継続相という用語は奥田(1978)による。日本語においてアスペクトをどうとらえるかについてはさまざまな議論があったが、奥田論文の登場以後は、ほぼ、完成相(スル):継続相(シテイル)の対立という考え方に落ちついたと言える。

[8] テンスとは何であるかについて記述することはこの論文の目的ではない。しかしテンスの問題を考えることが必要になることがあるので、この論文における筆者の立場を明確にしておく。 
 テンスとは、ある状況が発話時以前のものか(過去)、発話時をまたぐもの(現在)か、発話時以後のもの(未来)かを示す文法範疇である。朝鮮語おいては、過去(었다, 고 있었다etc.):非過去(ㄴ다, 고 있다etc.)の対立として存在する。たとえば、고 있다と고 있었다は、ある状況を継続中のものとしてとらえるという点(すなわちアスペクトがimperfectiveである)で一致し、고 있다は視点が発話時と一致し、고 있었다は視点が発話時より以前に移る(すなわちテンスは過去)という点で異なっている。
 また、テンスとアスペクトも全く無関係なものではあり得ない。筆者の考えによれば、最も典型的なテンスとアスペクトの相関は次のごとくである。
過去
現在
未来
imperfective
imperfective
----------
perfective
---------------    
perfective
 imperfectiveが未来を表せないことは、ロシア語の文法的完了体の未来が、形態的にはみ出し、бытьという補助動詞を必要とすることにも現われている。日本語のシテイルは「待っています」のように自由に未来を表わせそうに思えるが、国立国語研究所(1985)によれば、実際にはそのような用例は大変少ないという。英語の進行形にはI am going to school.のように未来を表わす場合もあるが、それが可能なのは少数の語彙に限られている。これらはすべて、imperfectiveが本来は未来と相いれないものであることを物語っているように思われる。

[9] 崔(1979)は、過去形が存在しない用言として現存하다(現存する)を挙げている。

[10] インフォーマントとしては、たくさんの韓国人に協力していただいた。特に苦労をかけた金美蘭さん(28才ソウル出身)、趙昌善さん(28才ソウル出身)、康仁善先生(32才ソウル出身)、朴時興さん(27才釜山出身)、李只香さん(25才釜山出身)にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。しかし記述における誤りはすべて筆者の責任であることは言うまでもない。

[11] ただし、これらの形においては単なる待遇表現上の違いしかないと断定することはできない。たとえばㄴ다は小説の地の文に多く用いられるといった違いがアスペクトに関しても何らかの違いをひき起こしている可能性は否定できないのである。しかしそれを明らかにするのははなはだ困難であるため、ここでは一応これらの形がアスペクト的に同等なものとして扱う。

[12] 連体形-는とㄴ다の局面は完全に一致するとみなしてよいと思う。それ以外の形におけるゼロ:고 있다の対立は、ゼロの側においてㄴ다と局面が一致しないことがある。たとえば、돈을 가지고 있고と돈을 가지고 있다の局面は一致するが、돈을 가지고と돈을 가진다の局面は一致しない。

[13] ここで「かなり」と言ったのは、알다(知っている)느끼다(感じる)などは自由に未来を表わせないからである。

[14] これは発話直後の未来であろうと、かなり先の未来であろうと同じである。ただしその際、それが起こることが確実であると思われている必要があるので、「アクチュアルな」未来という言葉を使ってみたい。

[15] (8)参照。ただしのちに述べるように、命令形の場合は未来を表すことがある。

[16] Lukoff(1985)によれば、小説などで過去形の文脈の中に現在形(ㄴ다)が現われた場合で、その現在形を過去形ととりかえることができない場合には、その動作がそのあとまだ継続することを表わすというが、これは過去形(었다)と現在形(ㄴ다)の対比の中で考えるべき問題であろう。ㄴ다だけを述べれば、それらは必ず継起的に起こるのである。

[17] 伊藤英人氏によれば、朝鮮民主主義人民共和国で書かれたものには、ㄴ다がアクチュアルな現在を現わす例が比較的多く見られるという。

[18] Маслов(1962)によれば、ロシア語のнепредельность(非限界)の動詞、たとえばлюбить(愛する)желать(望む)などには完了体(perfective)が存在せず、不完了体(imperfective)しかない。これらの動詞の語彙的な意味が、完了体の文法的な意味とあいいれないためである。これに対し、朝鮮語でこれに対応する사랑하다(愛する)、바라다(望む)はㄴ다と고 있다の両方の形式を持ちそれらの意味はかなり似かよっている。これは、朝鮮語のㄴ다の文法的な力がロシア語より弱く柔軟なために、語彙的な意味の力によって変容するからだと思われる。なお、непредельностьに対するпредельность(限界)の動詞は、完了体と不完了体の両方をもつ。

[19] 国立国語研究所(1985)では、変化動詞の完成相が結果の局面をとりだす場合として、「とけいが2時から3時までとまった」という例をあげている。未来を表わす例としても、「あすは、屋上のタンク清掃のため、午前ちゅう水道がとまります。」が挙げられている。朝鮮語もこれに似て、내일 9 시부터 10 시까지 수도가 끊어져요.などと言うことができる。この場合の끊어져요は끊어져 있어요と同じ局面を表わすことになる。しかしこれは水道のように出つづけるのかあたりまえのものが止まることを表わすかなり特殊な場合であって、単に끊어져요と言われた場合に、끊어져 있다と同じ局面を思い浮かべる人はまずいないであろう。よってㄴ다と어 있다の局面はふつうは一致しないものとみなす。

[20] 알다という動詞が始発の局面だけを意味するように見える例もある。
○「그 보담 <그대 드디어 생활을 알았구나>가 좋겠군.」(幻)
보다(見る)などにもこれに似た例があるが、このような場合、一体これらの動詞が本来意味する局面は何なのであろうか。
Comrie(1976)によれば、多くの言語でstative verb はperfective meaningの形を持たないが、それをもつ言語では、stateの始発の意味で使うことがあるという。従ってここでは、알다という動詞の基本的局面は「知っている状態」であると考えたい。(Comrie p.50参照)

[21] 李庸周(1983)では、안다が発話時以後を表わす場合もあるとしているが、そこで挙げられている例文にも-면が使われていることに注意。

[22] たとえば끄다(電気を消す)
○아마 애들 엄마는 아직 시장에서 우리를 기다리고 있는 것이고 애들 이모가 일찌감치 어린것들을 재우느라고 불을 끄고 있는 것이리라. (곡)

[23] 만나고 있다(会っている)が結果の持続というのはおかしな気もするが、ㄴ다との局面の関係からいえばそういうことになる。結果の持続を表わす例をもうふたつあげる。
○日商岩井는 수출을 담당하고 日商E는 일본의 국내판매를 맡고 있읍니다.(T)
○이 사내가 품고 있는 오해가 내가 해명해 줄 수 있는 오해였으면... (夜)

[24] 부둥켜안다(抱きしめる)のように、その動作を続けるためにエネルギーが必要な場合は、どこまでが動作でどこからが結果なのかよくわからない。次の例もそうである。
○나는 누나의 한 손을 쥐고 있다.(生)
○박은 분노를 누르고 있는 듯이 나직나직 말했다.(霧)

[25] 죽고 있다という形はほとんど使われず、あえて言うなら죽어가고 있다と言うべきであるという人が多い。到達点を表わす動詞の中には、고 있다はあまり使えず、어가고 있다を多く使うものがある。(たとえば끝나가고 있다--終わりつつある)。また、張(1973)を参照。

[26] 겁나 있다と겁내고 있다、화나 있다と화를 내고 있다はそれぞれ同じ局面を表わす。
○「넌 도대체 무슨 애가 그 모양이냐?」화가 나 계셨다(幻)
○당신 눈온 날부터 사흘째 나한테 계속 화내구 있어요. (사)

[27] ほとんどの動詞は고 있다が反復の意味を表わしうるが、ㄴ다が自由に未来を表わさない動詞(알다, 느끼다, 살다など)は反復の意味を持ちにくい。

[28] これを둘러싸 있다で言いかえられると答えたインフォーマントがいた。完全に静的な状態だからであろうか。(5-2参照)

[29] この違いは、副詞との結合においても現われるようだ。ㄴ다は、動詞の語彙的意味と衝突さえしなければ、점점(だんだん)のような副詞とも、뚝(突然)のような副詞とも共起しうるが、고 있다は動詞の語彙的意味にかかわらず瞬間的なさまを表わす副詞とは共起しない。
○날씨가 점점 갠다.
○그러는데 피에로 동아의 노래가 마지막 대목 다 가서 그친다.

[30] 連体形ならばアクチュアルな現在を表わせるという。
○지금 회의에서 다루어지는 문제는...

[31] 自動詞と他動詞が対をなしている場合は、他動詞が変化させる局面と、自動詞が結果の局面を表わすのが普通であるから、受動態の変化の局面は使われる頻度が少ないと言える。語彙的意味の力が弱いということはすなわち使用頻度が少ないことであると考えてもよい。

なお、18世紀の英語では、progressiveとpassiveは両立しなかったという。(Delancey1979による)

[32] ムード的な要素がつけ加われば未来を表わすのも고 있다と同じである。む
○그리고 돌아와 보면 대회생제약회사의 전무님이 되어 있을 게 아니에요?
(霧)

[33] 에と어 있다は他の動詞でもかなり多くみられるパターンだが、로は他の動詞では어 있다と共起する例も多い。를は当然のことながら他動詞に支配されるので、어 있다とはほとんど共起しない。

[34] ここで言う他動詞は、必ず対象語(体言語尾를のついた体言)を必要とするもので、自動詞はそれを必要としないものである。를と어 있다が共起する例については任(1976)に挙げられているが、それらは、를を에などにとりかえることができるか、あるいは省略できるものであって純粋な他動詞であるとはいえない。しかし筆者が集めた例の中には、純粋な他動詞があった。
○「거긴 한때 내가 방을 얻어 있던 집이 있으니까 인사도 할겸.」(霧)
○조금 웃으며 베개 밑으로 넣어 있던 두 팔 빼서 형섭 손 위에 얹으며 (사)
 最初の例は、얻어서 있던の서が省略されてものだということでインフォーマントの意見が一致した。あとの例では意見が分かれ、正しいと言う人と넣고 있다と言うべきだという人がいたが、釜山出身の人は他動詞と어 있다の結合を認めたがる傾向にあった。しかし方言差かどうかは定かではない。
 また、타다(乗る)は에と를の両方を支配しうるが、에を使えば어 있다との結合が可能になると言う。

[35] 漢字語+하다には例外が多い。
○하나밖에 없는 남동생이 정신병원에 입원해 있다고 하면,(父)

[36] 次のような例もある。
○이렇게 한국民族은 시베리아, 満蒙일대에 사는 소위 北方 민족권에 속하고 있으며(韓国語의 系統)
 このような抽象的な平面では、ㄴ다の方が고 있다や어 있다よりも断定的なニュアンスを持つようだ。

戻る