異言語間の意思疎通の可能性について
            塩田今日子
1 目的
 地球上には数千もの言語があると言われている。しかも、ひとつと数えられている日本語の中にも、さまざまな方言や世代による言葉の違い、個人の生い立ちによる言語形成の異なりがあることを考えれば、この地球上にはそこに住む人の数だけ言語があると言っても過言ではない。
 それらの言語の中には、お互いに全く通じ合わないものもあれば、何とか通じるものもある。外国語として多くの人が学んでいるものもあれば、母語とする人口が少なくて、今にも消滅しそうなものもある。いずれにせよ、言語はその背景となる文化と相俟って、人々の意識を形成する土台となっている。そして、異言語間の接触や交流が盛んになるに従って、互いの間の意思の疎通はますます重要性を増している。誤解や意思の疎通の欠如は、戦争や紛争の根本的な要因となりうる重大な問題である。
 異言語間の意思疎通の手段としては、外国語学習や身振り手振りなどの非言語コミュニケーションがあるが、いずれも多くの問題点を抱えている。そこで、それらの問題点と限界について指摘し、今までとは全く異なる方法を提示するのが、本論の目的である。

2 外国語学習の問題点
�全般的な問題
 日本で行われている英語教育を見れば、外国語学習というものがいかに難しいかは歴然としている。学校教育に於いて10年以上をかけて学んでも、英語で意思の疎通ができるようになる人は極めて少数である。指導方法に問題があるとしばしば指摘され、改善が試みられてきたが、実質的に成功しているとは言い難い。
 特別に才能がある人を除いては、一つの外国語で満足な意思の疎通ができるようになるためには、何年もの年月を要する。とすれば、一生の間に習得できる外国語の数は限られている。異言語間の接触がますます増えていくこれからの時代においては、今まで見たことも聞いたこともないような言語を話す人と意思の疎通を図らなければならない事態に遭遇する可能性はますます高まるであろう。そのような場合においては、「外国語学習」という手段は根本的に無力化してしまうことになる。

�不公平性の問題
 そのような場合のために、共通語としての「英語」の重要性が高まるのだという議論もある。しかし、世界の人々の英語力には明らかな格差がある。英語を母語として、自由に駆使できる英米の人々、母語ではないが、英語による教育を受け、母語と同等に意思の疎通ができるインドや香港などの人々、第二外国語として習得し、かなり自由な会話ができるヨーロッパの人々、第二外国語として学んでも、なかなか意思の疎通に到らない日本などの人々、さらに、第二外国語として学ぶ機会すらない人々等。これらの人々が一堂に会して英語で意見の交換を行うとすれば、英語を自由に駆使できる人々が有利になるのは目に見えている。
 いかに英語が国際語としての地位を固めつつあるとは言え、それを共通語とすることは、意思の疎通において最初から不平等を強いることになり、望ましい形であるとは言えない。
 このようなことは、一対一の対話においても言えることである。例えば韓国人と日本人が話をするとき、韓国人が日本語を学んで日本語で会話するにせよ、日本人が韓国語を学んで韓国語で会話するにせよ、自分の母語とする言語で会話する方が自分の意見を述べる上で断然有利になる。だからお互いに英語を使った方が公平になると考えることもできるが、それでは意思の疎通はかなり制限されることになる。

�誤解の問題
 このように考えてくると、外国語を学ぶことによって完全な意思の疎通を図ることには限界があるという結論に達する。仕方なく、とにかく自分が学べる範囲の外国語をできるだけ正確に学んで意思の疎通を図るしかないと、たくさんの人々が英語などの習得に日々努力しているのが現状である。けれども、どんなに正確に学ぼうとしても、避けられないのが「誤解」の問題である。
 幼いころからその外国語に接することによって、ほとんど母語と同じように外国語が駆使できるようになる場合を除いて、自分の母語がひとつ確立した後に外国語を学ぶ場合、自分の母語による干渉は避けられない。
 外国語学習では、まず最初に単語を習う場合が多いが、単語帳を作って外国語の単語とその日本語訳を覚える方式では、外国語そのものの意味ではなく、日本語の意味に置き換えて理解してしまうということになる。例えば、韓国語の시원하다という単語は、『朝鮮語辞典』(小学館)によれば、「涼しい」「すがすがしい」「さわやかだ」「(気分が)すっきりしている」「(言行が)はっきりしている」「(食べ物の味が)さっぱりしている」という訳語が与えられている。けれども、これは시원하다自体にたくさんの意味があるということではなく、ある中心(プロトタイプ)を持った意味の広がりがさまざまな状況においてこのように訳される可能性があるということに過ぎない。つまり、시원하다の意味は決して、「涼しい」+「すがすがしい」+「さわやかだ」+「すっきりしている」+「はっきりしている」+「さっぱりしている」ではないのだ。[i]
 このような日本語訳としての意味だけを覚えてしまうと、たとえば、寒い日に熱くて辛いスープを飲み干した人が시원하다!と言うのを聞いてとまどうことになる。よしんばその感覚(ある種の爽快感)をなんとか理解したとしても、韓国語で作文しようとするときには必ず問題を引き起こす。시원하다をその本来の意味ではなく、日本語の訳語の意味として、間違った使い方をしてしまうからである。そうなると、当然시원하다が使えない状況においてそれを使ってしまうという間違いを犯すことになる。例えば、秋口になって、「ずいぶん涼しくなったね。」[ii]というときのように。시원하다を使えば聞いた方は相手が正確に何を言おうとしているのか、即座には把握できない。
 また、単語それ自体は似通った意味であっても、組み合わせによって意味が変わってしまうことも多い。
 筆者自身も、かつてこんな体験をしたことがある。筆者が専攻している韓国語は日本語と語順が同じで、似通った漢字語をもっているため、日本語と同じ発想で単語を並べればかなり通じてしまうところがあり、日本語直訳調の作文により誤解を生む可能性の高い言語である。
 韓国語にも日本語にも同じ漢字の起源を持つ기분(気分)という単語がある。そのとき私はちょっと体調を崩していたので、「気分が悪い」と言おうとして、それをそのまま韓国語に直訳して기분이 나빠요.と言ったところ、周りの韓国人が心配顔で「何か気に障ることでもしたのか?」と聞いてきたのだ。そう言われて、기분이 나빠요.という言い方は、体調のことではなく、精神的に不愉快であるということを表すのだということに気付いた。彼らは自分たちの行動が私を不愉快にしたのではないかと誤解したのである。
 このような誤解は、外国語学習の初歩段階よりも、かなり熟達した場合の方が深刻である。初学者の場合なら、相手はこちらの能力が低いことがわかっているので、ある程度の誤解は承知の上で気を使って話してくれるものである。けれども、こちらが流暢に話していれば、相手もこちらが間違えるとは予想していない。だから、本当は間違った言い方をしたのであっても、意図して言ったと思われかねないのである。その場で直ちに聞き返してくれれば問題はないが、確認しなければ誤解が続くことになる。
 このような誤解の問題について、西江雅之氏は『旅人からの便り』の中で、ソマリアでの体験を述べている。
 彼は全く言葉の通じない数人の青年に行き会ったのだが、そこにたまたまイタリア語を少し理解する老人がいたために、その通訳を介して彼らと話をした。
 ところが、「あなたの住んでいたところに羊はいるか」と聞かれて、「日本にはほとんどいない」と答えたところ、彼らは突然心配顔で話し合いを始めたというのである。それは、彼らにとって羊は唯一の食べ物であり、羊がいないということは食料がないということを意味したからである。「その人々との間にふつうならば生じるはずがなかった誤解をわたしは知らずに与えてしまっていた」と西江氏は述べている。
 西江氏はさまざまな集団が共通語で話すことの危険性について、さらにつぎのように述べている。
 「おのおのの集団にはそれなりの物の考え方、判断の仕方のような、外見からはおよそ見当がつかない心の中の問題というのがある。こうした部分もまた、(中略)その異なりが同じ言語で相手に表現されてしまうことになる。そうなると、言葉が通じるだけにかえって相手の心も自分の心と同じと思い込むことになり、それがためにお互いに誤解を生み、理由もなしに悩みごとを大きくしたり相手を傷つけたりするということになってしまう。」(p233)

 お互いの文化や思想的背景を共有することなしに、言葉だけを覚えてしまって使うということは、相手に不必要な誤解を与えてしまうことにつながる。その文化的、思想的背景を熟知する以前に、安易に言葉が通じてしまうことは決して良いことではないのだ。
 こう考えてみれば誤解の問題は何も外国語に限ったことではない。同じ日本語を話す者同士の間でも、いつも起きていることである。同じ言葉を話しているからと言って、自分の真意が相手に正確に伝わっているとは限らないのに、伝わったはずだと誤解してしまう。同じ言語を話しながら意思の疎通ができていないために起きる問題は最近ますます深刻化しているように思われる。

(4)時間の経過の問題
 外国語を教える立場の者も、当然誤解の問題に無頓着な訳ではない。だから、単語の意味や用法がより詳しく書かれた辞書を編纂したり、その言語の背景にある文化や思想についての解説書を作成したりという努力が続けられているのである。けれども、いかに詳しい記載を施した解説書を作ろうとも、時間の経過によって情報が古くなって劣化することは避けられない。記載を精密にしようとすればするほど、その作成には時間がかかり、そのためそれが出版されるころになれば、せっかく書かれていることがもう時代遅れになったり、新しく登場した事象に対応できなかったりすることが多い。昨今のように変化の激しい時代には、今まで一度も見聞きしたことのない言葉に遭遇する機会がますます増えていく。今までのやり方では、そのすべてに対応するには無理があると言わざるをえない。

(5)方言の問題
 辞書や学習書を作ることに関しては、方言の問題もある。筆者は1989年秋から1990年春までイギリス中部の都市Leedsで暮らしたが、その間日常的に使っていた言葉は、発音、文法、単語の用法などさまざまな面で、学校教育で教わった英語とは異なるものが多く、そのための誤解もしばしば起きていた。例えば、duckの母音が[∧]ではなく、[⊃]に近い音に聞こえて、dogと誤解したり、dinnerという単語を夕食ではなく、昼食の意味として使うことにとまどったりしたのである。
 外国語教育で教えられる外国語は普通標準語であり、ほとんどの場合方言は無視される。私たちが実際にコミュニケーションをとらなければならない人が、かなり訛りの強い方言の使い手であった場合、相手はこちらの言うことをある程度理解してくれるが、こちらは向こうの言うことを全くと言っていいほど理解できないのである。[iii]
 このように、外国語学習によって意思の疎通を図ろうとすれば、いかに努力をしようと、完全な疎通は不可能であり、常に誤解という危険を免れることはできない。

3 非言語コミュニケーション
 身振りや手振りなどの非言語コミュニケーションも、外国語学習に負けず劣らず、コミュニケーションの手段として活用されている。一説によれば、二者間の対話では、ことばによって伝えられるメッセージは、全体の35パーセントにすぎず、残りの65パーセントは、話しぶり、動作、ジェスチャー、相手との間のとり方など、ことば以外の手段によって伝えられるとも言われる。けれども、非言語コミュニケーションもまた、それを使う人々の文化と密接にかかわっており、マジョリー・F・ヴァーガスも『非言語コミュニケーション』の中で指摘しているように、「ジェスチャー、動作、合図、記号などを、全世界の人間が同じように使い、同じように解釈することなどあり得ない」(p16)のである。
 例えば、イギリスの大学である日本人の教員が日本語を教えた際、英語で説明を加えずに身振りで「私は先生です。」ということばを表現しようとして、自分の鼻を指し示したところ、イギリス人の学生全員がそのことばを「これは鼻です。」という意味だと誤解したという話がある。イギリス人が自分を指すときには親指で胸を指すのが普通で、日本人のように人差し指で鼻を指すことはあり得ない。
 つまり、身振り手振りによる非言語コミュニケーションもまた、完全な意思の疎通には役立たない、ということになる。

4 完全な意思疎通の方法
 これまで、外国語学習や身振り手振りなどによる意思疎通の限界について述べ、完全な意思疎通は不可能であることを指摘してきた。しかしながら、いくら問題点を指摘したところで、新たな方法を提示できなければ意味がない。
 よってここで、意思疎通のための全く新しい方法について、実例を挙げながら提示したいと思う。

(1) 発端
 新しい方法について最初のヒントを与えてくれたのは、笹目秀和氏[iv]であった。彼が第二次世界大戦前、中央大学の学生だったとき、白頭山で呂霊棘(リョリンライ)神仙と会話した際の状況を、私は本人から直接聞いた。それによると、笹目氏は日本語を話し、神仙(二百数十才)は古い中国語を話して、二人は完全な意思の疎通を果たしたと言う。そこで笹目氏は神仙から「モンゴルの発展のために寄与する使命」について聞かされ、その言葉どおりその後の人生をモンゴルの発展のために捧げた。
 この話をにわかに信じる者は少ないであろう。そもそも神仙というものの存在自体が一般的には信じられていないからである。私もこの話を聞いた当時は、このような意思疎通の方法が一般的に可能であると考えていたわけではなかった。
 けれども、このような意思疎通の例はこれだけではなかったのである。

(2)子供
 まず、私の息子の例を挙げよう。彼は4才の時、初めて会った韓国人の女の子と遊んだことがある。
 息子は当時英語と日本語を話し、女の子は韓国語しか知らなかった。二人の様子を見ていると、息子は日本語を話し、女の子は韓国語を話しているのに、二人は完全な意思の疎通を果たしていた。それは大人の目から見ると実に不思議な光景であった。
 このことによって私は、かつて、神仙という特殊な(あるいは架空の)存在であるから可能なのだと思われた意思疎通の方法が、実は普通の人間にも可能なのではないかと考えるようになった。すなわち、相手の言葉に合わせるのではなく、お互いが自分の母語を話すことによる意思疎通の方法である。もしもそれが可能ならば、これまで述べてきたような問題がすべて氷解する。つまり、自分にとって最も話しやすい母語で話すわけだから、誰にとっても公平であり、誤用による誤解の恐れもない。さらに言っていることをその場で理解するわけだから、時間の流れによる情報の劣化もない。
 ではどのような場合にそのような意思の疎通が可能になるのであろうか。それがわかれば、すべての人がその方法を試すことができるはずである。これから、いくつかの実例を挙げて、それについて探ってみたいと思う。

(3)学生A
 授業中に150名ほどの学生に対して、次のような実験をしたことがある。ヘブライ語の数詞1から10までのテープを聴かせ、学生には何語であるか、全く情報を与えずに、何を言っているのかを推測させてみたのである。その後、ヘブライ語で1から10までであると正解を教えて、正しく推測した学生に手を挙げさせたところ、十数名であった(本当は正しく推測したのに、手を挙げなかった学生もいると思われるが)。もちろん、彼らがすべて正しい意味を感じ取ったわけではないであろう。単語が十個発話されたわけだから、そこから数詞であると推測することもできたはずだ。
 ところが、実験の後で数名の学生から、次のような反応があった。「自分も幼い頃、全く知らないはずの外国語を話す人が言っていることを理解できたことを思い出した。」というものである。
 子供の頃ならばそのようなことが可能だ、と考える人はかなり多い。子供はまだ頭が柔らかいし、話す内容も単純だから、というわけである。けれども成長してからも度々そのような経験があるという学生もいたのである。その一人が学生Aである。
 Aは電車に乗っていて、ある外国人に英語で話しかけられ、英語で答えようと思ったのだが、なかなかうまく行かず、思わず日本語でしゃべってしまったのだが、驚いたことに、下手な英語では全く通じなかったことが、日本語では完全に通じたのだと言う(もちろん相手は日本語を知らない)。
 彼も授業中にヘブライ語の数詞を理解したのだが、彼によれば、最初に何語であるかを知らないで聴いたときには意味がわかったのに、ヘブライ語であると知った途端、逆に意味がわからなくなってしまったのだそうだ。彼の言う「意味がわかった」ということは、日本語の翻訳としての意味ではなく、言葉の本質的な意味を指している。この「何語であるかわからないほうが理解できる」という点は注目に値する。
 その次の授業でポルトガル語の会話のテープを聴かせたとき、彼はその内容を理解できなかった。彼によるとその理由は「幼いときにポルトガル語を話す友達がいたので、聴いた瞬間にポルトガル語だとわかってしまい、その途端に何を言っているのかまるで理解できなくなってしまったから」であった。つまり「ポルトガル語である」という知識が、正しい理解を妨げてしまったのである。
 さらに、ワールドカップで大勢の外国人が日本にやってきたとき、彼は次のような体験をしたという。
 外国人が二人で話をしている。話の内容から、一人は日本に長く住んでいるスウェーデン人で、一人は日本に来たばかりのスウェーデン人だということがわかった。そして、日本に来たばかりのスウェーデン人が話していることの方が、はるかにわかりやすかった、というのである。(もちろん、学生Aはスウェーデン語を知らない。)
 
(4)学生B
 また、もう一人の学生Bは次のような体験を報告してくれた。
 韓国に行って韓国人と話をしたときのことである。お互いの言葉(韓国語と日本語)は全然わからないので、二人は英語を使ってコミュニケーションをとっていたのだが、二人とも英語があまり上手ではないのでなかなか話が進まない。もどかしくなった彼は、酒が入っていたせいもあって、日本語で話し始めてしまった。すると相手も韓国語で話し始めた。ところがなぜかお互いに何を言っているのが理解できてしまったのだ。それで二人はとても楽しくいろいろなことを語り合った。
 ところが、翌朝起きたとき、彼は前の晩の出来事を思い出し、不思議な気持ちに駆られた。確か昨晩あいつは韓国語で、俺は日本語で話していて通じたようだったが、そんなことが本当にあったのだろうか。夢ではなかったのか。
 それで、その韓国人と会ったとき、英語で確かめてみた。「俺たち、夕べ酒を飲みながらこういう話、したっけ?」「うん、したした。」
 酒が入ると言葉が通じない同士でも意思の疎通ができる、という体験は別の男性からも聞いたことがある。

 (5)母
 次は私の母の例である。母は戦前の教育を受けたため、英語は全くと言っていいほど知らない。ところが、娘婿のイギリス人が、子供(彼女から見れば孫)と英語で話をしていたとき、突然母が日本語で口をはさんだ。イギリス人によれば、それは英語の会話を正しく理解していなければ到底発言できない内容であったという。
 私がその話を聞いて母に詳しい状況を尋ねたところ、驚いたことに母はそのことを全く覚えていなかった。そして自分に英語がわかるわけがないと、その事実を頑強に否定した。
 母には英語を理解したという自覚が全くなかったのである。つまり、すべてのことは無意識下において行われたということである。

(6)野口晴哉[v]
 社会学者の見田宗介氏も、新聞のコラムの中でこのようなコミュニケーションの例について述べている。
 「イスラエル人の母親が逆子に困って訪れた時、野口はヘブライ語は話せないので仕方なく日本語で胎児に、 『オイ逆さまだぞ。頭は下があたりまえなんだぞ』と言ったら、胎児は正常に戻ったという。(中略)
 メキシコに長く住むバイオリンの黒沼ユリ子さんは、「ケンカの時だけは日本語」という。「力のある言葉」、 言葉に気魄(きはく)がこもるということがあるが、語る人の存在の深部において「身についた」言葉にしか気魄はこもらない。 胎児はこの気魄に感応するのだと思う。野口は日本語で言ったから通じたのである。コミュニケーションには言語的(バーバル) と非言語的(ノンバーバル)があるが、言語に随伴する「下言語的」(サブバーバル)交流という領野が存在すると思う。 言語が意識の交通なら、下言語は潜在意識の交通である。野口晴哉は、潜在意識の交通の達人であった。」 『私の野口晴哉2』(朝日新聞夕刊 2004.4.9)
 見田氏はこのようなコミュニケーションを「潜在意識の交通」と呼んでいるが、これは先に述べた「無意識下」と通じるものがある。

(7)高樹ミナ[vi]
 アテネオリンピックのときにギリシャに滞在していた高樹ミナ氏も、ギリシャ語自体はわからないのに、何を言っているのか理解できたという体験を次のように語っている。
 「早いもので、アテネにやってきてから20日がたとうとしています。こちらに来てから、ギリシャの文化や生活習慣、国民性など、毎日「発見」と「驚き」の連続で、その新鮮さに飽くことがありません。
 また、そうこうしているうちに、この国の言葉にもなじんできたような気がします。アテネの人たちが話すのはギリシャ語で、英語を話せる人の割合も日本よりはるかに多いのですが、公用語はギリシャ語です。私の言う「なじんできた」というのは、別に話せるようになったという意味ではなく、ただ、相手の言っていることが理解できるようになってきたということです。
■言葉は理解できなくても、相手の言うことがわかる
 昨日もこんなことがありました。レンタルルームをシェアしているルームメイトがこちらに到着したので、大家さんであるステファナキス家のご夫婦にさっそく彼女を紹介すると、奥さんのバッソが新しいシーツと枕カバーを、彼女のベッドにセットしてくれました。そこでの一コマです。
高樹「バッソ、ありがとう」
バッソ「○▲*□◎■▽*□●」
高樹「は~い、わかりました」
バッソ「△■◎▼○*△□●*」
高樹「いいの、いいの、十分ですよ」
バッソ「□▲! *●□△▼◎*■*◎?」
高樹「いつもありがとう。喜んでいただきます」
 この会話を聞いていたルームメイトは、「相手の言っていることがわかるの?」とけげんそう。いえいえ、そんなわけはありません。ただ、相手の表情や様子で、言わんとすることが伝わってくるのです。
 ちなみにバッソは、「寒かったらこのタオルケットをかけてね。うちはホテルじゃないから、シーツや枕カバーは娘が使っているものだけど、ちゃんと洗ってあるし、けっこう新しいものだからね。あっ、よかったらグリークコーヒーを飲む?」と言いました。
 この家の人々は一時が万事、本当に親切なんです。こんな具合に、電車の中やカフェでも、最近は人々の会話のやり取りがわかってくるようになりました。言葉自体は理解できないのに、なんとも不思議な気がします。」
(アテネの街角から 2004年08月20日 第8回「言葉とは、これ不思議なもので」より)
 
(8)考察
 これらの実例を参考にしながら、このようなコミュニケーションがどのようにして成立しているかについて、考察してみよう。
 まず、言えることは、見田も述べているように、このコミュニケーションが通常の意識レベル(顕在意識)の下にある意識レベル(潜在意識、あるいは無意識と呼ばれる領域)で行われているということである。その場合、通常の意識レベルの情報は、このコミュニケーションの助けにはならず、むしろ妨げになる。学生Aがポルトガル語を聞いたとき、それがポルトガル語であると意識した途端、何を言っているのかわからなくなってしまった、というように。
 つまり、当人にとっては、その言語自体を聞いているという意識はない。自分が英語を理解したこと自体に気付かなかった母もそうだが、このようなコミュニケーションをしているときには、その言語の音には全く注意が払われていないのである。私の息子は13歳でニュージーランドにしばらく留学していたときにも、そばで話していた中国人同士の会話を理解したことがあったそうだが、そのときにも中国語自体は全く耳に入っていなかったという。要するに、言語と共に発せられる「思い」を聞き取ったのであって、言語自体は何一つ聞いていないのである。
 このことは、人間同士が言語を介さずに、直接的に「思い」のやり取りが出来るということを示している。
 ではどのような場合にそのような意思の疎通が可能になるのであろうか。
 第一に、話し手の側に明確な意思表示が要求される、ということがあげられる。見田氏が述べているように、「語る人の存在の深部において「身についた」言葉にしか気魄はこもらない。」のである。自分にとって最も感情を伝えやすい言葉(通常は母語)を使わなければならない。
 学生Aのスウェーデン人の例からもそのことが言える。日本に長く住んでいたスウェーデン人の場合は、いくら母語とは言え、普段使い慣れていないスウェーデン語を使うことに若干の困難を伴っていたに違いない。つまり、自分の思いを100%言葉に込めることができなかったのだ。それに対して、スウェーデンから来たばかりのスウェーデン人は、自分の思いをよどみなく母語で伝えることが可能であったのだろう。
 第二に、これは意図して起こすことができることではなく、偶発的に起きることであると言える。あらかじめ何語であるか知らされたら理解できなくなってしまった例のように、最初に「外国語を理解しよう」という顕在意識が働いてしまうと、潜在意識レベルが機能しなくなってしまうのである。母の場合は英語を理解しているという意識すらなかったし、酒を飲んだときのように、顕在意識が抑えられているときに起きることからもわかる。
 第三に、聞き手がリラックスしている必要がある。酒を飲んでいるときは言うまでもないが、子供は普通緊張していないものだし、アテネでの高樹氏も大変親切にされてリラックスしていたように見受けられる。息子によれば、一生懸命聞き耳を立てているときよりも、むしろ何気なく小耳にはさんだときにわかることが多いという。相手に対する警戒心、自分には理解できない言葉を話しているという緊張感があってはいけない。つまり、未知なるものに対する恐怖を捨て、心を開く必要があるのである。 
 その他にも聞き手側に必要な資質があるだろうか。息子と学生Aの場合は、幼いときに日本語以外の外国語に触れる機会が多かった。すなわち息子は英語と日本語のバイリンガルであり、学生Aは外国語を話す友達との接触の機会が多かったという。けれども、学生Bや母はそうではないので、幼い頃に外国語に接した経験が必要不可欠であるとは考えにくい。ただし、そのような経験が外国語に対する抵抗感を和らげ、よりリラックスできたという可能性はあるだろう。
 また、これらの事例はヘブライ語のテープを除けば、すべて体験者の目の前にいる話者の会話を理解したものである。では、話者が目の前にいる必要があるのだろうか。映画やドラマの台詞は理解できるだろうか。その実例に接することができなかったので何とも言えないが、学生Aがヘブライ語のテープを聴いただけでその本当の意味がわかったとすれば、必ずしも話者が目の前にいる必要はないと思われる。

(9)まとめ
 それでは、では、なぜこのようなコミュニケーションが可能になるのだろうか。ラリー・ドッシーは『癒しのことば』という著書の中で、「祈り」というものが病気の治療などにどのような影響を与えうるのかを、 さまざまな実験結果をもとに厳密に検証し、直接コミュニケーションを取ることが不可能な者同士の間で、無意識が情報伝達の役割を果たしていると主張している。
 その中で彼は次のように述べている。 
 「あらかじめ計画されるのではなく、自然に発生する遠隔身体反応の性質は、オルダス・ハクスリーがかつて述べたように、 『努力の反比例則』を想起させる。つまり、この種の出来事は努力すれば起こせるわけではなく、かえって努力すればするほど 本人の意図に反する方向に向かうものらしい。成功の秘訣は何かをしようと働きかけないこと。自分の知恵で何かをするのではなく世界の英知にすべてをゆだねること──そうすれば世界はわれわれの前にその力をあらわし、遠く離れた人間に何かを伝えてくれるようなのだ。」(p118)
 このことは、先に述べた、「偶発的」、「リラックス」と通じるものがある。さらに彼は次のようにも述べている。
 「われわれはあまりに長きにわたり、自分たちを個々に分離した人格だと考え続けてきた。ために、統合ではなく分断こそが人間存在の根元的真実なのだと、あたかも自己催眠にかかったように信じ込んできた。だがもしも逆に、分断ではなく統合こそが人間存在の根元にあるなら、心のどこか深いレベルにおいては、何ものもどこかに『到達』などしないのかもしれない。なぜならそこではすべてがひとつにつながっており、分断された個は存在しない──つまり達するべきものなど存在しないからだ。
 もしもこれが真実なら、祈るとき相手とのあいだに感じる一体感は「なにも特別なものではない」ことになる。そうしたつながりをわざわざ築いたり 生み出したりする必要はない。なぜならそれはすでに存在しているのだから。つまり、祈りとは新しい何かを切り開くことではなく、 われわれ人間存在の真の姿や人間同士の真のつながりを思い出す行為にほかならないのだ。」(p159)        
 つまり、すべての人間は本来、次の図のように潜在意識の一番奥(円の中心部)で繋がっていると言うわけである。(線で区切られた円のそれぞれの部分が一人の人間)
        

 そうだとすれば、今まで他者を理解しようとして私たちが行ってきたアプローチは根本的に間違っていたということになる。
 これまで私たちは、この円の外側から他者に表面的に近づくことによって他者を理解しようとしてきた。異なる言葉を話す人々に対しては、相手の言葉を学ぶ、というふうに。当然誰でもそれが最も妥当なやり方だと考えるに違いない。しかしそのやり方はどこまでも誤解の危険が付きまとっていた。そしてその誤解を最小限にするために多大な努力を注いできたわけだが、いくら努力しても完璧に到達することはなかった。
 けれども、もしも私たちすべてが潜在意識の奥でつながっているのだとしたら、他者を理解するために他者に近づこうとする必要はなかったのである。本当に他者を理解するためには、この円の中心部に向かって、自分の潜在意識の奥に入っていけばいいのである。つまり自分自身であることに徹することが、他者を本当に理解する近道であるというわけだ。
 他者を理解するために自分自身であることに徹するというやり方は、なかなか理解されにくいだろう。一見、独りよがりで自分勝手なように見えてしまうからである。確かに、自分自身の潜在意識の中に深く入っていくことができなければ、表面的な意識において相手の意向を勝手に解釈してしまう危険性はある。だから、自分の中に嘘があってはならず、自分を真摯に見つめる態度が必要であろう。また、それは意識的に行うことが難しく、偶発的に起こることが多いため、非常に頼りない感じがするかもしれない。
 けれども、世の中の意味のある進歩は、すべて可能性を信じることから生まれてきた。このような意思の疎通の実例の数は決して多くはないが、確かに存在する。ならば、それは可能なのである。そう信じる人が増えれば、その可能性もさらに増大するのではないか。本当に治ると信じれば不治の病も治ることがあるように。だからここでこのような意思疎通の可能性について提示することも意味のあることだと私は考える。それによってより多くの人がその可能性を信じるようになれば、実際にそれができるようになる人が増える可能性があるからである。
 私たちはこれまで、あまりにも、「自分自身であること」に自信がなさすぎた。それ故私たちは他者との違いを気にし、他者に近づこうとし、他者からの情報を得ることに汲々としてきたのである。けれども情報はさらに多くの情報を必要とし、私たちはそれに振り回されているのが現状だ。どんなに多くの情報を得ても、それが不完全であるという不安から逃れることはできないからである。ならば、もしも本当の解決が「自分自身であること」に自信を持つことから生まれるのだとしたら、それは私たちにとって大いなる救いなのではないだろうか。
 「自分自身であること」に自信がなければ、他者の前でどうしても身構えてしまって完全にリラックスすることができない。それが私も含めた現代のほとんどすべての人間の姿であろう。我々はいつも、「何かを準備しなければならない」「より多くのことを知らなければならない」と思っている。そのような考えは明らかにこの意思疎通を妨害する。だからこのような意思疎通が偶発的にしか成立しないのである。
 そのため、残念ながら、どうしたらこれが可能になるかという方法論を打ち立てることができない。何らかの方策を講じること自体が身構えることにつながり、それがかえって意思疎通の妨げになるからである。唯一ここでできることは、「自分自身であることに自信を持つ」「リラックスする」「未知なるものに心を開く」という方向に答えがあるという方向性を示すことだけである。 

付言
 なお、この意思疎通の方法は、残念ながら外国語学習自体には全く役立たない。無意識下において意思の疎通をする場合、言語音には全く注意が払われていないため、言葉自体を覚えることができないためである。
 また、この論は外国語学習自体を否定するものでは決してない。異言語を話す人々との意思疎通の手段としての外国語学習は必要なくなるかもしれないが、自分と異なる文化に好奇心を持ち、学ぶことを楽しむ一環としての外国語学習は当然あっていいはずである。「学ぶ」ということは、本来、義務ではなく楽しみであったはずなのだから。

[i] 外国語の単語を、辞書を使って和訳して理解することは、それぞれの言語において異なる体系の中に存在する「似て非なるもの」によって、意味を代用してしまうことである。
 ある単語の意味は単独で存在するのではなく、その言語の中に存在するあらゆる単語(全体の体系)との有機的な関連性によって成りたっているという構造主義的な考え方が言語学で語られるようになってから久しい。厳密に言えば、一つの単語の意味を完全に理解することは、その言語全体を把握することに等しいのである。喩えて言えば、一つの単語はジグソーパズル(ある言語の体系)のピースのようなもので、全体像が明らかになって初めて、そこに描かれた絵が意味を持つというわけである。また、一つのピースを正しい位置にはめることができれば、他のピースも当てはめやすくなるのと同じように、一つの単語の意味を正確に把握すれば、それがまだ知らない他の単語の意味の理解にも助けになるはずなのである。
 にもかかわらず、その部分に、描かれている絵が少し似ているからと、全く別の体系を持ったジグソーパズル(別の言語)から持ってきたピース(訳語)を無理矢理当てはめてしまうようなやり方が、外国語教育において相変わらず行われている。これでは、他のピースもうまくはまらなくなってしまい、ジグソーパズルが完成するはずがない。つまりいくら単語帳で単語の意味をたくさん覚えても、それがその他の単語の理解には一向に役に立たず、結局いくら勉強しても外国語がうまくならないのである。
 だから、外国語教育を真に実のあるものにするためには、安易に日本語の訳語を提示するのではなく、学生が言語の全体像を把握して単語の意味を感じ取るまで忍耐強く待たなければならない。遠回りのように見えて、それが本当の近道である。これについては정찬용(1999)に詳しい。

[ii] この場合は쌀쌀하다という単語を使って”꽤 쌀쌀해졌네.”と言うのが適当であろう。

[iii]辞書や学習書を作ること自体が、方言の地位を低下させてしまうことも否めない。例えばアイヌ語においては非常に多様な方言が存在していたのだが、何人かの特定の個人の方言が取り上げられて辞書が作成されたことによって、それ以外の方言は無視された形になってしまった。言葉の多様性の維持が大切だと言われているが、その言語の特定の方言(標準語)だけにスポットライトを当てて研究したり辞書を作ったりすることが、それ以外の方言や個々人の言葉の地位の低下を招き、かえって多様性を阻害する結果になってしまうのである。

[iv] 笹目秀和(1902-1997) 本名 笹目恒雄。 大正13年 モンゴル・バルチョン親王家の養子となる。14年 東京・駒場にモンゴル青年教育道場を開く。 昭和9年 チベットのパンチェン・ラマよりホビルガン(ラマ教学博士)の称号を与えられる。昭和59年 奥多摩。大岳山に道院を建設。

[v] 野口晴哉(のぐちはるちか)(1911-1976)「野口整体」の創立者。著書に「整体入門」「風邪の効用」など。

[vi] 高樹ミナ(1970-)93年杏林大学外国語学部英米語学科卒業。リポーター・ナレーターとしてテレビやラジオで活動。引用の記事は
http://athens.yahoo.co.jp/column/report/landscape/at00002055.htmlによる。

参考文献
マジョリー・F・ヴァーガス『非言語コミュニケーション』石丸正訳 新潮選書1987
西江雅之『旅人からの便り』福武文庫1991
ラリー・ドッシー『癒しのことば』森内薫訳 春秋社1995
F.ウンゲラー,H.-J.シュミット『認知言語学入門』池上嘉彦ほか訳 大修館書店1998
정찬용 “영어공부 절대로 하지마라!” 사회평론 서울1999




二松學舎大学論集 第48号
2005(平成17)年 3月 28日 発行

英文題目
SHIODA,Kyoko
On the Possibility of the Communication between Different Languages

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