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「辞書学」

外国語の辞書を作るのには、大変な労力がいる。膨大な資料集めや分析、さらに厳密な校正など、多くの人が長時間をかけてたくさんの作業しなければならない。だから、骨身を削って辞書制作に携わる人々に対しては心から敬意を表するが、その結果作られたものが、これまで述べたように外国語習得にあまり役立たないとすれば、それは大変悲しいことである。さらに、辞書を作るのに必要な時間に比して、言語の変化の速度が速いので、つねに時代遅れの辞書しか作れない、という欠点もある。

かつてイギリス人のJが、大学でこんな実験をしたことがあったという。日本語の雑誌の短い記事を学生に渡し、まず辞書を全く使わずに英訳させた。それから、同じ記事を和英辞典を使ってもう一度英訳させてみた。その二つを比べると、イギリス人の目から見て、明らかに前者の方がわかりやすく、後者は何を言いたいのかよくわからないものが多かったという。つまり、どんなに舌足らずでも、自分の知っている単語や表現を使った文章のほうがが、辞書で見ただけの(訳語としてはあり得るが、実際に使ったこともなければ、使い方も知らない)単語を使った文章よりもはるかに通じる、ということだ。つまり、辞書を引いたところで、知らない単語はそもそも使えないのである。

辞書をもっと使えるようにしようという試みはある。連語(どのような単語とのつながりが可能か)という観点から記述するのである。(韓国語の例を挙げたいが、ハングルが文字化けするので、日本語の例で言えば)例えば、名詞だったら、数える単位は何であるとか(犬→匹)、動詞だったら、どのような助詞と一緒に使われるかとか(~いる、~住む、~暮らす)によって、さらに細かい分類をする、などである。

けれども、分類をしようとすると、いつもその基準が問題になってくる。すべての単語は少しずつ性質が違うので、同じ基準で分類するのは不可能だし、人によって意見の相違もある(「~住む」と「~住む」のどちらを好むかには個人差があるだろうし、「~暮らす」と「~暮らす」にはニュアンスの違いがあるだろう)。しかも言語学こうぎ(7)で述べたように、つねに「境界の越境」が起こりうる。

と言うわけで、分析や分類によって辞書の記述をより正確にしようと思っても、必ず破綻してしまうのである。頼れるのは「例文」しかない。はっきり言って、「例文」がない辞書は全く訳に立たない。逆に、その単語を含むさまざまな例文がたくさん載っていれば、その辞書は大変使いやすい。

だから結局、辞書を作るために言語学者がすべきことは、「例文をたくさん集めること」だけになってしまう。けれども、最近はコンピュータの発達によって、検索エンジンというとても便利なものが出現し、単語を入力すれば瞬時にたくさんのリアルタイムの例文が出てくるので、ますますやるべき事がなくなってしまった。残された仕事といえば、その膨大な例文の中から、最も典型的でよく使われるものを集めて、それに訳文をつけることぐらいであろうか。

おそらく、最も役に立つ外国語の辞書とは、見出し語に対する訳語はなく、その見出し語を含む豊富な例文と、その訳文が載っているもの、ということになるであろう。

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