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「序章」

のっけから、一風変わった「こうぎ」ばかり披露してしまったので、「一体これが言語学と言えるのか?」と思われた方も多いかもしれない。実際、私の授業に出ていて「これが本当に言語学と言えるのですか?」と抗議混じりで質問してきた学生も多かったけれども、一年間の授業を終える頃になると、大抵の学生が、「なるほど。すべて(言葉と)つながっていることがわかりました。」と納得してくれた。

もちろん、私もごく普通の言語学で語られているような、「音素」とか、「形態素」とか、「文法」とかの話を全くしなかったわけではない。けれども、そのようなことについて書いてある本はいくらでもあるから、ここで書く必要はない。

言語学書の中には、冒頭で「言葉の起源」だとか、前に触れた「ヨハネによる福音書」の文章に言及しているものもある。けれども、それはただ触れただけで、それについての詳しい考察はない。それらは、「言語学」として扱うべき内容ではない、あるいは、扱うことが不可能だ、と思われているのである。

けれども、私たちが一番知りたいのは、本当は、そのようなことではなかったのか。本当はそれが一番大切なことではないのか。

「言葉の起源」について、知りたければ、自分自身の中を深く観察すればよいのです。人間の個体が、受精卵から太古の進化の様子を辿るように、私たち個人の中に、すべての歴史が刻まれています。だから、自分の中に言葉が生まれる瞬間を捉えれば、「言葉の起源」もわかるはずです。

こんな話をしたら、ある学生が、それについてこんなレポートを書いてきた。

「さんざん考えた末に、辿り着いた結論はこうである。言葉が生まれたのは、「好きだ」という思いを伝えたかったからだ。」と。とても心に残るレポートだった。

「心に残る」というのは、非常に大切なことだ。それは、その中に真実が含まれていることを意味する。それにひきかえ、どうでもいいことは、いくら一生懸命覚えようとしても、すぐに忘れてしまうものだ。

何が本当に真実なのか、何が本当に大切なのかを見分ける鍵はそこにある。「真実」は心に深く響く。「なるほど。」と腑に落ちる。だからいつまでも忘れることがない。人は誰でも、何が真実であるかを見分ける目を持っている。なぜなら、すべての人が心の一番奥では、何が真実かを知っているからである。ただ、今はその目が曇っているだけ。雑多な知識が入りすぎて、目が見えなくなっているだけなのだ。

学校の授業で教えられていることが本当に真実ならば、これほど学校が荒廃するはずがない。一生懸命受験勉強をしなければ覚えられない(し、試験が終わればすぐに忘れてしまう)ようなことは、実はどうでもいいことなのである。

いくら勉強しても、なかなか覚えられない、なかなか理解できないと自分の頭の悪さを嘆いている人へ。
それはあなたが頭が悪いせいではありません。本当のあなたは、あなたにとって、何が一番大切か、何が本当の真実かをよく知っています。自分にとって、本当に大切なことならば、あなたは必ず理解できるし、覚えられるはずです。あなたが覚えられなかったり、理解できなかったりするのは、それが真実ではないか、あるいは、あなたの人生にとって必要ないことだからです。だからそれを無理に覚えようとする必要は全くありません。

また、難解な文章が理解できないことを自分のせいにする必要もありません。本当にわかっている人ならば、易しい言葉で、わかりやすく、例を挙げて説明できるはずです。難解な用語を使ってしか説明できないということは、書いた本人がわかっていない証拠なのです。そのような人が書いたものを理解しようとする必要はありません。

私は学生たちに、自分に自信を持って欲しくて、よくこんな話をする。学生たちは「妙なことを言う先生だ!」と目を丸くしている。もちろん、私の言うことが理解できない、あるいは賛成できない、という学生たちもいる。でも、そのような学生たちでも、私が言った言葉はどこか心に残っているらしい。「気になっている」のである。

というわけで、「気になる」というのも、一つのキーワードだ。自分にとって、不愉快な奴、嫌いな奴、あるいは敵であっても、その人のことが「気になる」のならば、それは、あなたにとってとても大切な人だ、ということを意味する。そのことを忘れないで欲しい。

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