実体と「名付け」の間隙              

 私の専門は言語学である。この世にはあらゆる種類の学問があるが、どの学問も突き詰めれば言語をもって語ることしかできないのであるから、言語学というのは人間を理解する上で根幹となる学問であると言えるであろう。最近のテーマは「異言語間の非言語コミニュケーション」であるが、その概略について述べてみたい。
 外国語でも日本語でも同じだが、言語の研究において得られた洞察の中で最も深い感銘を覚えたのは、「部分」と「全体」との関係であった。すなわち、どんな小さな部分も全体の中における他の各部分との相互関係においてのみ存在しうるのであって、いかなる部分と部分といえども厳密に言えば決して互いに無関係ではあり得ない。ある部分を完全に理解しようとすれば全体を知らなければならない。それは、つまり (奇妙なことに) 部分は全体を含んでいるということである。例えば、「赤い」という単語は、「白い」「黒い」「青い」などの単語との関係と、「赤い花」「赤い血」などの文脈におけるつながりにおいてのみ、意味を持つことができる。それはつまり「赤い」という言葉の意味を本当に理解するには、日本語全体を知らなければならないということである。「赤い」という一つの単語の中に、巧妙にも日本語全体が隠れているのである。
 ある単語、あるいはある文法的要素の意味を知るために、我々はそれらの各部分を細かく調べ、分析する。文例を集め、定義を下し、例外と思われるものについて解説する。もちろんそれだけでは十分でないので、さらにその結論の問題点を検討して新たな定義が下される。けれどもどこまで行っても結論は常に不完全である、という不安が付きまとう。なぜなら部分を細かく調べれば調べるほど、奥はさらに深く、広くなり、全体が見えなくなってしまうからである。厳密に言えば他の全ての部分との関係についての考察が必要なのだが、それは不可能だ。また、どんなに厳密に調べても、全ては時間とともに変化するので結論はいつも過去のものになってしまう。現在は常に未知である。完璧な結論などない。それは人間が到達できるものではなく、永遠に追求すべきものなのだ!  と誰もが思う。けれども果たして、本当にそうなのだろうか。
 韓国語の文法的要素の一つについて、その意味と用法を調べるためインフォーマント調査をしたときのことである。私が例を作成し、それが韓国語として自然な文であるかどうか、韓国人に聞いて確かめる作業の最中に奇妙なことに気がついた。言語学とか文法などまるで知らない普通の人々が「これは自然だ。」「これはおかしい。」「これはほとんど使わないが、こんな場合なら使えるよ。」といった風に明快で有意義な示唆をくれるのに対し、韓国人の言語学者たちはしばしば「この文は文法的に正しくないからこうは言わない。」とか、「この言い方は文法的だから可能だ。」などといって、「普通の」人々の普通に感覚に反するような答えをくれるのである。言語学者たちは自分の下した文法的な定義に縛られて、言語に対する自然な感覚を失ってしまったのだ。
 ある要素が何であるかを説明し、それを定義づけることは、つまりそれに「名付け」をすることである。「名付け」をすれば、それによって一旦は実体を把握したような気になるが、実はそこから問題が生ずる。その「名付け」自体にまた定義が必要となり、それに縛られて最初の「実体」の感覚を見失う。その上その定義は困ったことに人によってしばしば解釈が異なるのである。さらに「名付け」によって必ず例外が生じるので、その例外を何らかの説明によって処理しなくてはならない。それらの全てを検討してさらに新たな「名付け」が行われるが、それは次第に抽象的かつ難解で、一部の専門家しか理解できないものになっていき、最初に調べようとした具体的な実体からは遠く離れてしまうのである。
 ここで、最初にある要素が何であるかを説明しようとしたこと、すなわち「名付け」という行為自体が果たして正当なことなのか、という疑問が生ずる。「名付け」が常に不完全だとすれば、「名付け」以外に解決方法があるのではないか。よりましな「名付け」を求めて迷路に迷い込む以外に何か方法があるのではないか。
 このような疑問からある活路が開いた。解決方法はあった! 完璧な結論は存在していた!  それは「名付け以前」である。
 ある文法的要素の意味や用法を正確に理解してもらうための最善の方法は、それが実際に使われる文脈や場面( それはより臨場感があって、自然であればあるほどいい。)をいくつか並べ、それを感じとってもらうことである。ここに説明は一切必要ない。わずかでも「名付け」が介在すると、それは正常な感じる能力を失わせる。このようなやり方は子どもには大変効果的で、大人には反発を買うことが多いであろう。なぜなら大人はあまりにも「名付け」による説明に慣れてしまって、それがなければわかったような気がしないからである。けれども大人といえども感じる能力を失ってしまったわけではない。「名付け」の洪水によって、鈍化してしまっただけだ。「名付け」たいという欲求をぐっとこらえて、実体と「名付け」の間の間隙を見るのである。その間隙をはっきり捕らえたとき、実体それ自体を感じることができる。
 その間隙は、「名付け」のような固定的な、過去のものではなく、生き生きとした今であり、(奇妙にも)全体を含んでいる。必要なものは全て存在していて、なおかつ全く無駄がない。創造的な「名」(言葉)を生み出すこともできるが、それに縛られることはない。それはあらゆるものの源泉なのである。
 上の息子が四歳の時、韓国から同い年の女の子が遊びに来て、二人で一緒に遊んでいたことがある。お互いの言葉は全く知らないのに、奇妙に通じている。息子が日本語で「行こう!」と言い、女の子が韓国語で「アラッソ! (分かったよ)」と叫んで、二人は一緒に駈けて行った。まさに間隙において生きている姿だった。
 これが「異言語間の非言語コミュニケーション」の極致である。「名付け以前」の間隙を見ることはある意味では勇気のいることである。けれどもそれこそが現代社会の行き詰まりを打開できる道なのではないだろうか。 
         (二松学舎大学「人文論叢」第55輯 1995年10月)
  

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