「感覚的回路」を開く

 第二次世界大戦前にある日本人が朝鮮半島の白頭山に登った際、そこで二百歳を越す仙人に出会ったという話を聞いたことがあります。そのとき、その日本人は日本語を話し、仙人は昔の中国語を話して、互いにかなり難しい話をしたそうなのですが、二人は完璧に通じ合うことができたということです。 
 なんとも信じがたい話ですが、私はのちに自分の子供がこれと似たようなことをやっているのを目撃することになります。私の家に韓国から友人が子供を連れて遊びに来たとき、四歳の息子と韓国人の同い年の女の子と日本語と朝鮮語で会話しながら仲良く遊んでいるのです(もちろんふたりは互いの言語を学んだことなどありません)。息子が日本語で「行こう!」と言い、女の子が朝鮮語で「 アラッソ(わかった!)」と答えて二人で外に飛び出していく様を大人たちは唖然として見ていました。  
 このような話を学生たちにしてみると、中には、自分の子供のころを振り返り、「大人たちが話すのを聞いて、単語はわからなくても何を話しているのか何となく分かった」という感覚を思い出したという人が何人もいました。私たちはひょっとしたら、知らない言葉を聞いても意味が分かる能力を本来持っていたのに、それを忘れてしまっただけなのかもしれません。大人になった私たちももう一度その感覚を思い出すことができるのではないでしょうか。
 我々はある文を聞いたら、常にそれを単語の意味などに分析して理解しようとします。けれどもそんなふうに分析できない、それが話された状況を全体として感じたときに得られる何かをかなり見落としてしまっているのです。ひょっとしたら言語自体よりもその感じの方が真実を語っていてはるかに重要なのかも知れません。例えば、本当は好きなのに正直に言えなくて「お前が嫌いだ。」と言ってしまう場合のように。そのとき、見かけの言葉の意味に惑わされずに真実を見抜けるかどうかはとても重要でしょう?
 また、外国の人が日本で講演をするとき、日本語で話してくれるよりも、その人の母語で話してくれた方がはるかに理解しやすいことがあります。たとえこちらがその言葉をあまりよく知らなくても、です。外国の人が慣れない日本語を使うと、話している本人自身が明確な意志表示ができないので聞いている方も訳が分からなくなってしまうのです。これに対し母語ではっきりとした意図をこめて話してくれれば、大切なことはだいたい伝わるものです。
 最近アメリカで行われている演劇活動には次のようなものがあるそうです。アメリカは英語のみが通じる一言語社会ではなくて、多言語社会です。さまざまな国から来た移民たちの多くは、英語では自分の言いたいことを十分に表現することができません。そのような移民の俳優が、自分たちの母語で(あるいは母語と英語の混じった言語で--いずれにせよ自分が一番表現しやすい言葉で)せりふを言う演劇が試みられているのです。せりふはできるだけ少なくて済む台本を使うそうですが、それでもひとつの演劇の中でさまざまな言語が飛び交うことになります。俳優たちはその方が感情移入がしやすく、迫真に満ちた演技ができますし、観客の方も、何を言っているのかはっきりとはわからなくても気持ちはよく理解できて面白い、というわけです。まさに、白頭山で日本人と仙人の間で行われていたようなことが、現実になりつつあるのです。
 これも「感覚的回路」を開く試みのひとつだと言えるでしょう。我々が言語の異なる人々とコミュニケーションする場合、どちらの言葉を使っても、母語でない言葉を話す人が常に本当に言いたいことを言い尽くせない、という不利益を被ることになります。世界言語として英語を採用したところで、英語を母語とする人々以外はどうしてももどかしい思いを強いられてしまうのです。それらの不公平を一挙に解決するのが、この、各々が自分の言葉で話し、聞く人はそれを理解する、というやり方ではないでしょうか。そのために必要なのが「感覚的回路」を開くことです。21世紀のコミュニケーションはこうなるような予感がするのですが、皆さん、いかがですか。本当に分かり合いたいなら、伝え合いたいなら、試してみる価値があると思いませんか。
 けれどもこの際に大切なのは、話し手が自分の言いたいこと正直にはっきり表現することです。そうでなければ伝わるはずがありませんから。このようなコミュニケーションでは嘘は通用しないのです。
           (1998年 月刊「言語」7月号)

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