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息子のこと。

 

彼は受胎したときから普通ではなかった。

まだ、妊娠したかどうか確実でない頃、私は15、6歳の少年の夢を見た。「僕の名前は高山力(つとむ)と言います。友達になって下さい。」

その頃私は韓国にいたのだが、韓国では「胎夢」というものを見る風習(?習慣?習性?)があり、「それはお腹にいる子供に違いないから、高山力にちなんだ名前をつけてやれ。」と言われた。ただし、韓国では、龍とか虎とか花とか、とにかく象徴的なものの夢を見るのが普通で、人間の子供が出てくることは滅多にないそうだが。

妊娠中には、知人が「山参」(野生の朝鮮人参)を採ったと言って持ってきたり、野生のイノシシを捕まえたと言って現れたりした。それらは大変身体にいいものだと言われたが、食べた私は特段健康になるということもなかったから、みんな胎児の腹に収まったらしい。

出産のために日本に帰ったのは1月も半ばを過ぎてからであった。普通ならその季節は、ソウルの通りにはかなり雪が積もっている頃なのだが、その年(1989年)はなぜかほとんど雪が降らなかった。私はソウルの冠岳山の中腹に住んでいて、急な斜面を上り下りしなければならず、積もった雪に滑って転べば流産もしかねないところだったので、雪が降らないのは本当に有り難かった。既にお腹が大きかったので、飛行機は諦めて、船で帰ることにし、ソウル駅に向かったのだが、駅について列車に乗った直後に大雪が降り出したのを見て、これは天の助けではないかと思ったものである。

出産は2日がかりの難産であった。今でも印象に残っているのは、生まれた直後に彼が目を開けてあたりを見回し、「あーあ、生まれたくなかったのに、生まれちゃった!」というような顔をしたことである。まるでその後の自分の苦難の人生を予見したかのような表情であった。出産した助産院はかなり有名なところで、育児雑誌のカメラマンが来て、出産直後のシーンを撮影したりもした。(だからこれが彼の最初の雑誌デビューである。まだ2度目はないが。)私は力(つとむ)という名前が好きではなかったので、高い山にちなんだ名前をつけることにした。(ちなみに彼の英国名は私の大好きな映画俳優の名前をひっくり返したものである。)

幼児の頃の彼はとにかく健康であった。生まれてから半年はとにかく母乳以外は全くといっていいほど口にしなかった。それなのに、十ヶ月を過ぎたある日、突然母乳を飲まなくなってしまった。乳離れは難しいと言われているのに、この子は一体…?

彼は言葉を覚えるのも、文字を覚えるのも早かった。1才にならない頃にもう将棋の駒を覚えた。父親は英語を話し、私は日本語を話したので、最初のうちは男は英語を、女は日本語を話すものと勘違いしていて苦労したようだ。3歳の頃には英語の歌詞を指で追いながらビートルズの歌を聞いていた。さらに誰もやり方を教えないのに、自分でCDをテープにダビングしたりもした。

でも、彼の言語能力の異常さには理解に苦しむところがあった。ある日彼の父親Jが私のところにやって来て、ラテン語で書かれたグレゴリオ聖歌の歌詞を見せた。そして、そのCDをかけながら、「今、どこを歌っているかわかるか?」と聞いた。ローマ字だが、みんな同じように見えて、私にはどこだかさっぱりわからない、と言うと、彼(息子)がこれを聞きながら、歌詞の正しい位置を指で追っていた、と言うのである!

1才のころ、こんなことがあった。私は彼をベビーチェアに乗せその前でホットケーキを作っていた。そのときちょっと用事を思い出して、卵やボールをテーブルの上に置いたまま、その場を離れた。ところが戻って来たとき、なんと卵がボールの中に割ってあるではないか。

その場所に彼以外の人間はいなかった。ということは、彼が割ったのか? しかも殻は少しも潰れずに、切り取ったように見事に二つに割れている。「あなたが割ったの?」と聞いても彼は答えない。未だに彼がどうやって割ったのか謎である。

私が仕事をしているため、彼の幼児期の世話はもっぱら彼の父親Jがしていた。だからJは私よりも息子に驚かされることが多かったらしい。

彼らは毎朝近くの土手に散歩に行っていたのだが、ある日彼がJにこう言った。「この道はもうすぐ工事するよ。(in English)」それから数日後、Jがそこを通りかかると、「工事中」と書いてあったと言う。

ある日、夕方に突然の夕立があった。天気予報では降水確率0%だったのに! そこへ帰ってきたJに、「大変だったね。雨に濡れなかった?」と聞くと、「大丈夫。彼が朝、傘を持って行けと言った。」(それで素直に傘を持っていくJもなかなかのものだが。) それから、梅雨の季節には、親たちは毎朝彼に尋ねるようになった。「今日傘いる?」彼の予報の的中率は100%だった。(その後彼がその能力を失ってしまったのは、テレビの天気予報を見るようになってからである。)

今でもそうだが、彼は時刻表と地図帳が大好きだった。そしてそこに出てくる漢字や時刻を覚えてしまった。彼が漢字が好きらしいので、私が小学生用の漢字辞典をやると、彼はそれを見てこう言ったものだ。(「左」という漢字のところで)「なんで「あてら」がないの?」 「その字は「ひだり」で「あてら」なんて読まないよ。」すると彼はおもむろに時刻表を取り出して、「左沢線」の読み仮名を私に見せた。「あてらざわせん」

彼は初めて訪れた場所でも、その先に何があるか知っていた。「どうして知っているの?」と聞くと、「地図で見た。」また、テレビで初めて見る電車が、何線のどこ行きであるかも瞬時に言い当てた。

それから車のナンバープレートが好きで、一生懸命読んでいた。「習志野、千葉」「土浦、茨城」「ちょっと待って。あなた、どうして習志野が千葉県にあると知っているの?」するとまた、彼は私をナンバプレートの近くまで連れていく。「ほら、ここに書いてある。」見ると、丸い銀色のネジの上に「千」の文字。こんなところに県名が書いてあるなんて、私は全然知らなかった。

それから、ゴミ収集車が大好きで、父親と一緒に、毎回13箇所も追い回し、ときどきゴミを入れさせてもらったり、スイッチを入れさせてもらって喜んでいた。生ゴミの汁の洗礼を受けてきたこともたびたびあった。

弟が生まれる少し前には、「赤ちゃんは日曜日に生まれるよ。」と言った、それを聞いた助産婦さんも素直な人で、「じゃあ、この次の日曜あたりかしらね。」と言った。けれども、赤ん坊は次の日曜も、その次の日曜にも生まれなかった。生まれたのは三週間後の日曜日だった。

彼は平和主義者でもあり、破壊主義者でもあった。テレビの暴力的な映像を大変嫌った。子供同士で遊ぶときも、戦争ごっこが大嫌いで、「どうしてみんなで仲良くしないの?」と抗議した。

にもかかわらず、彼は身の回りのものをやたらに壊した。でも、彼が壊すのを私は止められなかった。彼が壊すものは、大人にとっては大事なものでも、本質的には必要ないものなのではないか、と感じたからである。

彼が破壊した最大のものは自分の両親の婚姻関係であった。してみると、それまで彼が壊したものも、すべて偽物だったのだろう。生まれてから、周りの大人を仰天させ続けた彼のこのような言動は、すべて、5才の時の「母親を取り替えるべきだ」という発言を大人たちに信じさせるための、布石だったに違いない。

彼を目の当たりにして、私は「子供を大人が教育しなければならない」などという考えがいかに見当違いであるかを思い知ったのである。彼は生まれたときから、大人よりもはるかに多くのことを知っていたばかりでなく、真実とは何かを既に知っていたのである。

息子の絵 題「Exit」

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