Sun&Moonのリンク

自叙伝・・・・これはある人に宛てた手紙です。

                                    

H.K.さま

2002.12.25

今日は失礼なことをしてごめんなさい。あなたがXXに行くのを止める権利など私にはなかったと思うし、怒らせてしまったことも申し訳なかったと思うけれども、どうしても伝えたい何かがあって、引き留めずにはいられなかった。結局けんかになってしまったけれど、あなたがずっと私の目から視線をそらさずに話を聞いてくれたのは、とてもありがたかった。どうもありがとう。

自分にとって大切な人とけんかをするのはつらいことだ。本当はいつまでも仲良くしていたいし、嫌われたくもない。けれども、本当のことを言わずに、表面的に仲良くすることは私にはできない。たとえけんかになっても、大切な人には本当のことを言いたい。大切な人だからこそ、本音をぶつけ合いたい。すべてを話せばきっとわかってくれる、その時が来るまで、たとえ嫌われても憎まれてもしかたない、と思う。

これから書くことは、以前に韓国語と英語で書いたことがある。それぞれ、韓国の友人とニュージーランドの友人に伝えたいと思って書いたのだが、日本語で書くのは初めてだ。今まで、何度か日本語で書こうとしたことがあるけれど、どういうわけかうまく行かなかった。多分まだ時期が来ていなかったのだろう。今回も本当は文章にするのではなくて、直接顔を見ながら話したかったのだが(そうすれば私が真剣なこと、うそをついていないことがわかってもらえると思ったから)、どうやらそれは難しそうだから、この機会に日本語ですべてを書いてみることにする。でも、膨大な量になるよ。書くのにも読むのにも時間がかかりそうだね。

私はあなたが大好きだし、とても大切に思っていて、何よりもあなたの幸せを心から願っている。あなたが本当に幸せになるためだったら、私は命を捨てることだってできるよ・・・と言ったらあなたは信じてくれるだろうか。多分難しいだろうね。私はあなたに全然信頼されていないと感じる。私は決して自分の利益のためにあなたをだましたり、うそをついたりはしないけれど、でもそのことを証明するのはとても難しいよね。そのために私にできることはここですべてを包み隠さずあなたに見せることだけだ。私がここで完全に無防備になって、すべてをあなたにさらけ出して、あなたを傷つける武器などどこにも隠していないことをわかってもらうしかない。

私はあなたに約束するよ。決してうそはつかない。あなたを決して裏切らない。どうかそれだけは信じてほしい。

私が彼(月○)に出会ったのは、1992年5月9日、私が32才のときだった。そこは四国で自然農法を営んでいる人の農場で、私はそこでの集まりに参加する韓国の友人の通訳をするために行ったのだが、どういうわけか友人には会えず、そこにいたのが彼だった。彼は25才で、自然農法の研修に来ていたのだが、以前に私が訳した本(韓国人が書いたもの)を読んだことがあったらしく、私に話しかけてきた。私はその本の著者についていろいろ彼に説明してあげたのだが、話しながらとても驚いたことがあった。それは彼が私の言うことを100%理解していると感じたことだった。あなたは人と話をするときどのように感じるかわからないけれど、私は普通、どんなに自分をよく理解してくれる人でもせいぜい80~90%ぐらいしかわかってもらえないと感じていて、それが当たり前だと思っていたから、彼が100%理解したということは私にとってはとても驚くべきことだった。

私は彼といい友達になりたいと思った。最初に彼に感じたのは深い友情であって、決して恋心ではなかった。そのとき私にはすでにイギリス人の夫と、3歳になる○明、それからお腹にもうひとりの子がいたから、当然恋人がほしいなどとも思わなかったしね。

ところが、家に帰ってきてしばらくすると、急に彼のことを思い出すようになり、会いたくていても立ってもいられなくなった。そのころ例の本の著者の韓国人が東京に来る用事があって、彼がその著者に会いたいと言っていたので、私は彼を四国から呼び出した。実は私はそのとき彼に会うのがとても怖くて、わざわざ夫(Jさん)を誘って一緒に会ってもらったほどだった。

本の著者との会合が終わった後、彼との別れ際に、もしよければうちに遊びにおいで、と言ってはみたものの、おそらくもう彼に会うこともないのだろうな、と思った。どうしようもないほど悲しかったが仕方のないことだった。

ところが、驚いたことにそのあと彼から「遊びに行きたい」という電話がかかってきた。私は内心ひどくうろたえたよ。彼が来たらまともに応対できる自信がなかったのだ。けれども彼が来る日はJさんは仕事で不在で、うちには○明と両親がいたから呼んでもいいだろうと思った。

彼がうちに来たのは1992年6月1日のことだ。私は彼を目の前にして、やっぱり涙があふれ出すのをどうすることもできず、「あなたが好きだ」と言ってしまった。彼は「嬉しい」と言った。「僕も塩田さんが好きだから来た。そうでなければ来なかった。」

それから私と彼はかなり深い話をしたのだが、それは彼が95才(!)になる父親との間に問題を抱えていて、人生の悩みが深かったからだと思う。私は自分が彼を助けてあげられるような気がして、かなり踏み込んだ発言を繰り返し、彼との間で激しい口論になった(ちょうど今日のあなたと私みたいにね)。最後に私が彼に、「自分を捨てろ。」と言うと、彼は「今はできない。」と言った。「なぜできない?今できなければ、永遠にできないよ。私があなたの幸せを祈っていないはずはないじゃないか。どうして私を信じてくれない?あなたのことがこんなに好きなのに!」

私はそこで泣き崩れてしまったが、彼はその姿に感動したようだった。別れ際に、彼は私にこう言った。
「今日は本当に来てよかった。何か大きな忘れ物をしたような気がして・・・」

けれども、ふたりともこの世で縁があるとは思っていなかったんだと思う。彼も私も真面目でかたい人間だったからね。

実はその一部始終を○明が見ていたので、ちょっとまずかったかな、と思い、私は夜、○明を寝かすときにこう言った。
「ママ、今日泣いてごめんね。」
「ママ、どうして泣いたの?」
「さあ、どうして泣いたんだろうね。」
「それはねえ、誰かが帰ってきたからだよ。」
「誰かが帰ってきたから?」
「そうだよ。」
「その誰かって、誰のこと?」
その質問には答えずに、○明は深い眠りについてしまった。

「誰かが帰ってきたから」。そう、まさしくそうだった。私が永い間待っていた誰かが帰ってきたんだ・・・それは私にとってまさしく天の声だった。でもそれは3歳の子供の言葉としてはあまりにも衝撃的な言葉だと思わないかい?いや、むしろ、大人が言ったのではなく、3歳の子供が言ったからこそ、私にはそれが天の声だと信じられたのかもしれない。

私は○明の言葉を彼への手紙に書いた。彼の返事にはこう書いてあった。
「いつの日か、あなたの元に真に帰る日のあることを信じます。」私と彼は本当に愛し合っているのだということが疑いなく信じられた。でも、それは私にはこの世の話ではなく、あの世か、さもなくば来世の話のように思われたよ。

その後何度か手紙のやりとりがあったのだが、そのとき彼の手紙の中にはいつも必ず深い愛情に満ちたとても暖かい一文が含まれていて、私はいつも天にも昇るほど幸せだった。けれども私にはひとつ気になっていることがあった。それは彼が私を握りしめているように感じられたことだ。

私は韓国に留学中に出会ったある先生(と言っても、年は私とほとんど変わらないし、学歴は小卒だ。でも、大変深い知恵のある人で、私は彼を尊敬している)にいつも次のように教わっていた。
「本当に欲しい大切なものなら、手放しなさい。それが再び戻ってきたとき、それは完全にあなたのもので、二度とあなたのそばを離れることがない。けれども、大切だからと言って、それを握りしめたら必ず失うことになるよ。」

私は彼に私を失ってほしくなかったので、何度も手放せと言い続けたのだが、彼は私を手放そうとしなかった。あるとき、私は彼を完全に遠ざけるために決別の手紙を書いてしまった。私は彼を傷つけたくなかったし、これでもう完全にお別れになるのかと思うと本当につらかったけど、でも、彼が本当に幸せになるためにはどうしてもそうするしかないと感じて、泣きながら書いたよ。

その手紙が彼に着いたと思われる頃、私は夜明け前に不意に目が覚めた。突然ものすごく深い悲しみを感じ、涙が止まらなくなった。私には、彼が悲しんでいるように感じられた。それはあまりに深い悲しみで、美しいほどだった。深すぎる悲しみは幸せそのものなのではないか、と思うほどだったよ。

私は彼と連絡を取ることもなくなったが、そんなふうに夜明け前頃に彼を感じることはしばしばあった。遠く離れているのに、そんなことわかるわけがないと思うかもしれないけれど、そのころの私には、今、彼はこんなことを考えている、とか、こんなことを感じている、ということが手に取るようにわかったんだ。(心が通じ合っているもの同士なら、離れていてもわかるものだよ。)けれどもそれは決して嬉しいことではなかった。彼がどんなにつらい思いをしているかがわかってしまったから。

それは9月7日の夜のことだった。真夜中に目覚めると、人の気配を感じた。不意に誰かが後ろから私を抱いた。もちろん、誰もいるわけがない。でも、明らかに、「人」を感じるんだよ。それが彼だということはすぐにわかった。簡単に言えば、私は彼の生き霊に襲われたわけだ。

私はそのとき、愛する男に絶対的に必要とされるということがどんなに素晴らしく幸せなことなのかを初めて知った。私は結婚していたけれども、悲しいことに、そんなふうに必要とされていると感じたことは一度もなかったんだよ。私は女として彼の要求に応えたいと切実に思い、彼をいやしてあげたいと心から願った。でも、それは当時の私には許されないことだった。もうすぐ生まれてくる赤ん坊と家族があったからね。それで私の心は完全に分裂してしまった。

その後私は次男(和)を生んだ。それからはまさに地獄の日々だったね。私は相変わらず彼がどう感じているかを感じ取ることができたのだが、それは私にとっては耐え難い拷問だった。私はまるで自分が男であるかのように感じた。そして、男が女を本当に必要とするとき、どれほどの苦痛を味わうかを毎日思い知らされたのだ。そんなに私が欲しいなら、どうかもう一度抱きに来て、と私は心の中で彼に訴えたが、彼の生き霊は二度と来ることはなかった。本当に発狂してしまいそうだったよ。あらゆるものを手当たり次第に壊してしまいたかったり、大声でわめき散らしたり・・・自分をしっかり押さえていないと、今にも家族を捨てて彼のところに飛んでいってしまいそうになる。私は必死で自分を押さえ付けた。結局私は鈍感になって、彼に向かって全開していた心を閉じてしまうことで、その苦痛から逃げようとしたんだ。でもそれはもっとつらい地獄だった。私はいかなるものも愛せなくなってしまった。自分の子供すらも!

最近よく自分の子供を虐待したり、殺したりする話を耳にするけれど、私にはそんな行動に出てしまう親の気持ちがよくわかる。あのころの私がまさにそうだったから。それがどんなに悲しくつらいことか、よくわかるんだよ。

私は夜ほとんど眠れず、まともに食べることもできず、体重が37キロまで激減した。冬になって、風邪を引いたら、肺炎になってしまった。強い薬を飲んだら本当につらくて死にそうだった。病院に行ってレントゲンを撮ったら、肺炎はもう治ったと言われた。でもそれは治ったのではなくて、私の体の生命力が枯渇して、病気に対抗して炎症を起こす力さえなかっただけだったんだ。私はほとんど死んでいた。

彼からは一切連絡がなかった。私にとって一番つらかったのは、そのことだったのかもしれない。私がこんなに苦しんでいるのに、死にそうなのに、彼に完全に無視されている、ということだったのかもしれない。本当に愛されたと信じた人に見捨てられたというショックは私の心に致命的な傷を残してしまった。

私はどうにも耐えきれなくなって、ついに夫のJさんに本当のことを打ち明けた。彼のことを好きになってしまったこと。それを言うのは、本当に勇気がいることだった。Jさんに申し訳なかったし、傷つけたくなかったから。でも、結果的には、そのとき本当のことを言ったことによってあとで道が開けたんだよ。

自分に少し正直になったことによってやや楽にはなったが、私は相変わらず病気のままだった。そのことを心配して、1993年の5月に例の韓国人の先生が変わった治療道具を持って日本に来てくれた。

それは渦巻きのようなものが書かれた紙(気のエネルギーが込められていると言う)と、人の体のようなものが書かれた紙だった。先生はまず、人の体の胸のあたりに印を付け、そこに線香で穴を開けた。それから渦巻きの紙を私の前に置いて、そこに手をかざして見ろと言った。手をかざしたとたん、とてつもない笑いがこみ上げてきた。私はげらげら笑いながら転げ回った。そうしたら、今まで数ヶ月もの間、病院に行っても何をしても治らなかった病気がうそのように治った。要するに心の病だったわけだ。

体は元に戻ったが、病気の根は相変わらず心の奥に巣くっているように感じられた。このままではいつまた病気になってしまうとも限らない。私はどうしてももう一度彼に会わなければならない、と思った。

1993年の10月に、例の韓国人の先生がもう一度日本に来る機会があったので、私は先生に、一緒に彼に会って欲しいと頼んでみた。ひとりで会うのは怖かったし、よくないと思ったので。そのとき彼は川崎に住んでいた。私たちは1年数ヶ月ぶりに靖国神社で再会した。

私は彼に会う前に、時間を節約するために、その間に起きたことを手紙に書いて、彼に送っておいた。どんなにつらかったか、どんなに愛しているかを正直に書いたのだが・・・

ところが彼はまるで別人のように冷たかった。「あなたのことなんか、好きでも何でもないですね。」と彼は言ってのけたよ。私はもう何を言っても無駄だと感じ、韓国人の先生に、全然だめだと告げた。ところが彼の意見は違っていた。「ちがう、ちがう。僕は男だからわかるんだが、奴は徹底的に自制しているだけだ。」

私たちは大手町の駅で別れたのだが、そのとき地下鉄に乗った私を見送る彼の目が今でも忘れられない。実に、実に悲しい目をして私をじっと見つめていたよ。

男の人にとって自制することは美徳なのかもしれないが、その片割れの女である私にとっては、それは再び地獄が始まることを意味する。彼が耐えなければならない苦しみをそのまま感じてしまうわけだから。男の人は自分がどう苦しもうと自分の勝手だ、と思うかもしれないが、それが大切なパートナーをどんなに苦しめることになるか、わかって欲しいとつくづく思う。

とにかく私はつらさに耐えられずに彼に長い手紙を書いたんだ。そして最後にこう締めくくった。「あなたがひとりでいると、私はつらくてたまらない。どうか早くいい人を見つけて結婚して欲しい。」と。

返事は来なかった。そして私の地獄は再び始まった・・・

それから一月ほどした1993年12月16日(それは私の誕生日だった)、そのころ私は青山学院大学の講師をしていたのだが、表参道の通りを歩いていると、なんと彼が目の前を歩いて来るではないか! 私は我が目を疑って何度も見たが、確かに彼だった。彼はとても目が悪く私に気づかなかった。私が腕を引っ張ると、彼は驚いて私を見た。「偶然の出会いは人を無防備にする」という言葉を聞いたことがあるが、まさにそうで、その日彼はいつになく正直だった。私は彼と一緒に食事をしながら、かなり深い話をすることができたよ。
つらかった日々のことについて、
「あの時、私はこの世に何の未練もなかった。ただ子供のためだけに生きていたかったんです。でも、子供のために生きていたいというのもきっとエゴなんですよね。」
「続けてください。」
「だから私は自分が生きたいように生きるしかありません。」
「それでどうしたいんですか。」
「いつまでも一緒にいたいです。」
「とめませんよ・・・」
彼の発言に驚いて私は彼を見た。そして家にいる子供のことを考え、私はついこう言ってしまった。
「ごめんなさい・・」
(やっぱりこれは私の逃げだったね・・・)

その後彼はまずいというような顔をして、家に逃げ帰ってしまった。

その日私は家に帰ってから、Jさんに正直に彼に偶然会ってしまったことを話した。そして、これから何が起こるかわからない、でもすべてを正直に話すから、どうか許して欲しい、と言った。Jさんは「どうりで朝から胸騒ぎがした」と言ったよ。

その後は手紙を出そうが電話をかけようが全く拒絶され、私は完全に行き詰まってしまった。そのころ、私の韓国の先生が、私にあるセミナーを受けないか、と勧めてきた。それはアメリカで始まった自己啓発セミナーで、あらゆる問題を解決する力があるというんだ。私は韓国に行ってそのセミナーを受けてみたが、問題の解決にはならなかった。けれども私と一緒にセミナーに参加した人は、皆とても明るい表情になって帰っていくので、そのセミナーには何か力があるように思えたよ。

それで私はアメリカに渡って、マスターコースを受けることになった。このセミナーを日本で普及してくれと頼まれたからだ。私は気が進まなかったが、義務感を感じて引き受けたんだ。

日本で初めてのセミナーが行われたのは、1994 年の6月の初めだった。それは私の家の隣の空き家を借りて、韓国人のマスターや受講生もたくさん参加して行われた。最初「正直になる練習」のようなものがあったのだが、その最中に日本人の受講生の男が突然発狂した。具体的に言うと、何か別の霊に取り憑かれている、という感じだった。韓国人のマスターたちは、このセミナーの成功のために、彼を追い出すことを私に要求した。でも私は拒否したよ。なぜなら、彼は私の友人だったし、第一、一番苦しんでいる彼を救えずに追い出すセミナーなんて、やる価値もない、と思ったから。私は「私が責任を持って彼を引き受けます!」と宣言した。けれども具体的にどうしたらいいのかはさっぱりわからなかったよ。ただ、私の人生も追いつめられていたから、決して困難から逃げたくはなかったんだ。

そのとき、不思議なことが起きた。私は急に何か羽織を着たような気がした。目に見えない羽織、それは多分女だったと思う。どうもその発狂した男に取り憑いている霊の恋人らしかった。その目に見えない女は、その霊をどう扱ったらいいのか、完璧に知っているようだった。私以外にその男を扱える人間などいなかったし、私もどうしていいのかさっぱりわからなかったので、その女性のなすがままにしていた。するとその女は、まるで香港映画に出てくる道士みたいに不思議な術をたくさん繰り出した(つまり、周りの人には、それらはすべて私がやっているように見えた)。手のひらから気を発してその勢いで相手を転倒させたり、額にれんがを押し当てて、何かを吸い出したり・・・それを見ていた韓国人は私に、「これは何十年も気功術を習った人でも難しい技なのに、あなたは何でこんなことができるのか?」と聞いた。私は「私にもわかりません。」と答えるしかなかった。

そんなことをしているうちに、私とその男はまるで恋人のような関係になってしまった。私たちは恋人ではなかったのだが、中に取り憑いているふたりが恋人同士なのでどうしてもそのように振る舞わざるを得なかったんだ。でも、最後に私はその取り憑いた霊を彼から追い出すことに成功した。その霊は私の中にいた女の霊と一緒にどこかへ行ってしまった。私はそのとき、男が本当に自分の問題を解決するためには、どうしてもパートナーの女が必要だということを身をもって学んだ。

そんな異様な雰囲気の中で、私が家にも戻れず忙しい日々を過ごしているとき、5才になった○明は、父親のJさんに突然こんなことを言い出した。
「ママは忙しすぎるから、僕はもうひとりお母さんが欲しい。」

Jさんは、私がとても悩んでいることを知っていたから、もしも自分もよくて、○明もいいという人がいれば、私を解放してやろうと思ったらしい。それで、○明に何人かの女性の名前を挙げてきいたそうだ(それがどういうわけかみんな私の親友なのよ)。
一人目の女性に対して、○明は
「彼女は小さすぎる。」
二人目は韓国人だったが、
「ママは日本人がいい。」
3人目は私の大学の後輩なのだが、
「彼女はママより大きい。」
と言ったそうだ。それで、Jさんは、この人だ、と思った、と言う。
その話をJさんに聞いた私は驚いて、
「それであなたは、この3番目の人をどう思っているの?」
「それが・・・初めて会ったとき、素敵だなあと思った。」

そのとき、私は大げさにいえば、天地がひっくり返るような気がしたよ。それまで私は自分のことを、家庭があるのに変な男を好きになった悪い人間だと思っていた。それが突然間違いであることに気づいたんだ。もしもこの世に本当の片割れがいるとすれば、私が相手を間違えたということは、Jさんも間違えたということで、Jさんにも本当の相手がいる、ということなんだ。つまり私は幸せになっていいんだ、いや、私が幸せにならなければ、Jさんも幸せになれないんだ、と。

そのとき私は、みんなが幸せを奪い合うのではなく、すべての人が幸せになれる世の中が実現可能だということに急に気がついた。それは本当に幸せな瞬間だったよ。

さて、私は発狂した男を救うことに成功したのでほっとしたんだが、それもつかの間、最終日にその男はもう一度おかしくなった。今度は包丁を振りかざして、私以外のすべてのマスターを威嚇し始めた。
「恐怖を見ろ! 恐怖を見ろ!」

マスターが自分の恐怖をまっすぐ見ることができたら、男はそのマスターを解放した。マスターが自分の恐怖を見ることに抵抗したら(つまり、何をしているんだ、やめなさい、などと言って自分を防御しようとしたら)、男はマスターが恐怖を見ようとするまで容赦なく殴りつけた。今思うに、その男は自分を追い出そうとしたマスターたちの心に恐怖があったのを見抜いていたんだと思う。その男はこのセミナーにマスターたちを試しに来た天の使いだったのかもしれない。そのエネルギーはなぜか私にまで及んでしまって、私は家に帰って夫のJさんと、母に対しても同じことをした。ふたりは私を受け入れてくれたが、父は最後まで私を受け入れてくれず、私をひどく殴った。

私の家の周りは異様な雰囲気に包まれ、近所の人たちが恐怖を感じて、警察を呼んだりする騒ぎにまでなったよ。

ところが事はそれでは終わらなかった。その後その男が行方不明になってしまったんだ。夜になって、その彼から電話がかかってきた。それはとても不思議な電話だったよ。たった一言、彼は言った。
「今日子さん、言えないのは、あなたの電話番号。」

??この意味がわかる人など、ひとりもいないに違いない。でも、もう少ししたら、わかるよ。もう少し先まで読めば!

その翌日は1994年6月13日、まさに私の人生が変わった日だ。その日の朝、彼は再び電話してきて、私に「五井先生のところに行け」と言った。何かとても切迫しているようだった。五井先生というのは、五井昌久という宗教家で、もう亡くなっている人なんだが、「世界人類が平和でありますように」というステッカーを世界中に張る運動をした人だ。私は彼の書いた本を読んだことがあって、彼のことを尊敬はしていたが、彼の信者ではなかった。とにかくそこに行けというので、○明と和と韓国人の先生を連れて市川市にあったその団体の本部に行ってみたんだ。

そうしたら、私の体がまた突然勝手に動き出した。池のほとりまで行ったとき、私の頭のてっぺんに、ガーンと何かが落ちてきた。それは本当にものすごい衝撃で、私は思わずきゃーと叫んでその場にバッタリ倒れてしまった。あなたはテレビか何かで巫女に何かが降りてくるシーンを見たことがあるかい?何かとてもうそくさく見えるかもしれないが、まさにあんな感じで私はばったり倒れたんだよ。

再び起きあがったとき、私の体は私の体ではなかった。私の中に降りてきた何者かによって動かされていたんだ。普通巫女の体に何かが降りてくるとき、巫女自身は意識を失って、何があったか覚えていないと言うけれど、私の場合はそれとはちがって、完全に意識があった。つまり、自分が今から何をするかは全くわからないが、何をしているかは完全にわかっている、という状態だ。

私の中に降りてきたのが何者なのか、私には今でもよくわからないが、多分五井先生本人だと思っている。とにかく私は「立ち入り禁止」と書かれているお堂の中にためらいもなく入っていった。そして五井先生の大きな写真を見つめた。次の瞬間、木のブロックのようなものを手に取ると、いきなりその写真に向かって投げつけた。私は思わず「やめてー」と叫んだ。すると私の頭の中で声がした。「強くなれ。」「強くなれ。」

私は中にいる者が私に写真を壊せと言っているのを感じた。私はブロックをたくさん投げつけ、写真をびりびりに破いてしまった。

宗教団体というものはそういうものなんじゃないかな。始めた創始者は立派かもしれないが、弟子たちは彼を神のようにあがめ奉り、自分で考えることをしなくなり、組織を守ることに汲々とするようになる。五井先生はそれを壊したかったんじゃないだろうか。

お堂を出ると、韓国人の先生が、子供たちを連れて心配げに私のところにやってきた。私は彼らに言った。
(私の口から出る言葉だけれど、私が言っているのではなくて、私自身言いながら驚いたりしていたよ)
「私はこれから死ぬから、子供を連れて帰ってちょうだい。」
○明が泣き出した。けれども和は泣かなかった。
「泣くな、お前のお母さんは○○子だ。(例の3番目の女性)」
そして、韓国人の先生に私の持ち物をすべて預けた。私はひとりになった。

そこへ、その団体の人がやってきた。
「お前は写真を破っただろう?」
「はい。」
彼はおびえたような目をした。そして、もうひとり人を呼んでくるから、動かずにここにいろ、と言った。私は彼の後ろ姿に向かって叫んだ。
「愛しているよ。」

彼はぞっとしたに違いないね。私がまたひとりになると、天からものすごいエネルギーがどんどん降ってくるのを感じた。そのとき天が私に「死ね。」と命令した。当時私は月○のことで完全に行き詰まっていたし、○明も新しいお母さんを見つけたのだからもう死んでも悔いはないと思えた。だから迷わずに「死にます。」と答えたよ。

エネルギーはますます強くなった。そのとき、さっきの人が他の人を連れてやってきた。ところがおかしなことに、彼らは私に気づかない。私はわざと彼らの前を歩いてみた。全く気づかなかった。彼らだけでなく。ほかの通行人も、誰ひとり私に気づかなかった! 見えてないのか? ただ、犬だけが、何かおかしな者がいるとあたりをかぎ回っていた。私は生まれて初めて透明人間になったよ。私はすでにこの世の者ではないな、と思った。

それからしばらくして、私は歩き出した。そしてタクシーを拾った。(ということは、再び見えるようになったということだ。)タクシーの運転手に私は行き先を告げた。
「登戸」

その言葉に私は仰天した。それはまさに月○が住んでいるところだったからだ。天が彼の元に行けと言っている、すべてを捨てて彼の元へ行けと言っている・・・それは私にとって、思いがけない、身に余る幸せだった。

市川から登戸まではかなりの距離があり、私は何も持っていなかったから、運転手は私のことをさぞかし不審に思ったと思う。私は彼の住所は知っていたが、実際に家に行ったことはなかったので、道を知っているわけではなかった。でも、私の中にいる者が間違いなく知っていると思われたので、私は何も心配していなかったよ。

神奈川県にはいると、私は運転手に道を指示し始めた。しばらく走ると、運転手が言った。
「お客さん、さっきから、同じところをぐるぐる回ってますよ。」
「そうですか?」
「お客さん、お金持ってますか?」
「いいえ。」
「じゃあ、警察に行きましょう。」
ということで、私はまたしても警察のやっかいになる羽目になった。

着いたのは横浜の港北警察署だった。警察署に着くと、取り調べが始まった。
「どうして市川でタクシーに乗ったのか?」
そのとき私の口から出たのは、こんな言葉だった。
「登戸の彼と2年間同棲していたが、彼が浮気してほかの女を作ったので、怒って家出して、市川まで歩いて行った。」

もちろん私の中にいる者がでっちあげたでたらめな作り話だよ。(でも、ひょっとしたらある意味では真実だったのかもしれない。)

警察官が彼の住所を聞いたので、私は答えた。ところが次に電話番号を聞かれたとき、私はどういうわけか思い出せなくて答えられなかった。そのとき、私は急にあの例の男の不思議な電話のことを思い出したんだ。
「今日子さん、言えないのは、あなたの電話番号。」
そうか! これはそう言う意味だったのか!

電話がかけられないので、仕方なく警察官が登戸の彼の家に行き、変な女を保護しているから、引き取ってくれと言ったらしい。彼はすぐにそれが私だとわかったらしく、私の本当の住所を警察官に告げたようだ。

警察官が私のところにやってきて、言った。
「お前、うそをついただろう?もう身元は割れてるんだよ。今旦那が迎えに来るから、待ってろ。」

私の家ではそのころ、大騒ぎになっていた。私が「死ぬ」と言い残して、行方不明になってしまったからだ。日本語もわからないのに幼い子供を連れて私の家まで何とかたどり着いた韓国人の先生は、泣きながらJさんに
「今日子さんを守れなくてごめんなさい。」と謝ったそうだ。
そのときJさんは、
「大丈夫ですよ。今日子は使命のある人だから・・・」と言ったという。

警察署から電話があったときはすでに終電が終わる頃になっていたので、Jさんは家のある取手から横浜までタクシーを飛ばして来てくれた(我が家には私以外に運転できる人がおりませぬ)。Jさんが来るまで、私はぼーっと警察署のテレビを見ていたのだが・・・

そのとき、突然臨時ニュースがはいった。
「北朝鮮政府は、もしも日本が北朝鮮に対して経済制裁をするなら、それを日本の北朝鮮に対する宣戦布告とみなす。」

その当時、北朝鮮が核兵器を製造しているという疑惑が起こり、朝鮮半島の緊張が高まっていた。でも、宣戦布告とは?これは戦争が始まるという意味ではないか。穏やかではないな。でも、そのときまで、私はそのことと自分が関係あるとは夢にも思わなかったんだ!

Jさんがやってきて、タクシー代を払ってくれ、家に帰ろうと言った瞬間、私の口から急に英語が飛び出してきた。日本語に訳すと、
「今、私が彼のところに行かなければ、戦争が起きてしまう。北朝鮮が日本を攻撃するよ。ターゲットは日本なんだ!」

言いながらもちろん私もびっくりしていたが、私の口調があまりにも真剣そのものだったので、ありがたいことに、Jさんは私の言うことを信じてくれた。再びふたりでタクシーに乗り、登戸に向かった。ところがまたしても運転手が・・・
「お客さん、こっちは登戸じゃありませんよ。」

私は、登戸でなくてもかまわないから、私が行けという方に行ってくれと頼んだ。そして着いた先は、あるビジネスホテルだった。

すでに夜の12時をまわっていて、ホテルの入り口にはかぎがかけられ、ほとんどの窓は真っ暗だったが、4階の一室だけに明かりがついていた。私は「あそこだ!」と叫んだ。それから夜中じゅう、私はホテルの周りをぐるぐると回り続けた。まるで何かから彼を守るかのように。ホテルの周りには3メートル近いようなフェンスもあったが、私は恐れも感じずにそれをよじ登って回り続けたよ。

午前4時半になると、新聞配達の人がやってきた。私はそのすきに乗じて中に入り、フロントの人に「とても疲れているから、少しだけ休ませてくれないか。」と頼んだ。フロントの人は、「あいにく今日は満室で、部屋が空いていないから、そのソファで休んでください。」と言った。フロントの人が奥に入ったすきに、私はエレベーターに乗って4階に向かった。例の明かりのついていた部屋に行くかと思ったら、そうではなかった。

まず、一番遠い部屋からノックし始めた。中から人が出てくると、「すみません、間違えました。」と言うのを繰り返した。なぜそんなことをしたのかよくわからないが、多分彼に恐怖を与えようとしたんだと思う。あの時宿泊していた関係ないお客さんには、早朝にたたき起こしてしまって大変申し訳ないことをしたが、私にはどうしようもなかったよ。

問題の部屋まで来たとき、私はノックしなかった。足でドアを蹴り上げ、「月○出てこい!」と大声で叫んだのだ。でも、誰も出てこなかった。その日は満室で、間違いなくその部屋にも客はいたはずだ。もしも月○ではない客がいたとすれば、間違いなく、迷惑だから帰ってくれと言ったはずだよね。

私は彼の部屋の前で、「お前が正直じゃないから、戦争が起こってしまうんだ。」と何度も叫び続けた。「ばかやろう!!みんな死んじまうんだぞ!!」そして、Jさんにも何か言ってくれと頼んだら、ありがたいことにJさんはこう言ってくれたよ。

「月○さん、今日子を返すから、許してくれ。」と。

月○は出てこなかったが、またしても現れたのは警察官だった。警官は私を力ずくで追い出そうとした。そのとき、Jさんは私と警官の間にはさまってとても苦労をしていたよ。私の味方をすればふたりともきちがい扱いされて捕まってしまうし、警官の味方をすれば私がかわいそうだし・・・とにかくJさんは私と警官の間を一生懸命取り持った。Jさんにしかできない芸当だったよ。

結局私は引きずり出されたが、そのとき何となく、ようやく危機は去った、という感じがした。その後、警察署に連れて行かれたとき、Jさんは私の身分を全部しゃべってしまった。二松学舎大学の先生をしていると。私は「これで大学はクビだな。」と覚悟を決めた。でも、仕方ないじゃないか。とにかく、私には戦争を寸前でくい止めた、という実感があったし、それは大学を首になることなど問題にならないくらい大きなことだと思えたから。

けれども私は大学をクビになることはなかったよ。警察官が、この発狂した女が大学の先生であるとは全く信じなかったからだ。Jさんという保護者がいるという理由で私は無罪放免になった。その後私は川崎市内を歩き回って、いろいろな神社やお寺に行って、自分のエネルギーを放出した。その後、月○のアパートに行こうとしたが、そのときすでに私は神通力を失っていて、郵便配達の人に聞かなければ、彼の家がどこにあるかわからなかった。彼の家はもちろんもぬけの殻だったよ。そこまで来て私は我に返った。急にどうしていいかわからなくなった。Jさんが言った。「家に帰ろう。」

その直後にカーター元大統領が北朝鮮を訪問して、突然危機は去った(ことになっている)。

私が離婚を決意したのは、本当はこの事件があったからなんだ。私は韓国語を専攻していたから、それまでも韓国には興味があったけれども、北朝鮮には特に興味はなかった。でも、この事件をきっかけに私は北朝鮮という国に関心を持たざるを得なくなった。

よく見ると、北朝鮮という国は、その性格が月○にそっくりだった。とても純粋だけれども、ハリネズミのように自分を守っている、閉鎖的で危険な国。かたや韓国は私のように何でも受容するタイプの国だ。私が初めて彼に出会った頃(1992年春)、南北朝鮮の関係は非常によかった。ところが、私と彼の関係が冷えるに連れて南北朝鮮の関係も悪化し始め、1994年6月には最悪の事態に陥った。南北はもともとひとつの国だったが、第二次大戦後の国際情勢のせいで二つに引き裂かれ、お互いにほとんど交流もできないまま、両極端の性格を持つ国になってしまったんだ。会うこともできず、連絡を取ることも、消息を知ることもできない引き裂かれた家族が、一千万人もいる。これは本来ひとつであったものが男と女に別れてしまい、お互いの片割れを探し求めている人間の姿によく似ていないか?

世の中というものは人であれ、団体であれ、国であれ、似たものは波動のレベルで互いに影響を及ぼし合っているんだ、ということを私は知った。ただ、それに我々が気づかないだけだ。それから自分の最も個人的な問題、自分にとって最も切実な問題こそが、世の中の大きな問題と関わっていることもわかった。人はよく、私的なことよりも公のことを重視する傾向にあるが、実は最も私的なことこそが、世の中を動かす力と結びついているんだよ。私は自分の恋愛という最も私的な問題を追求していたら、突然世界平和という最も大きな次元に飛び出してしまったんだから。

その後2、3日して、私は月○に電話をしてみた。驚いたことに彼は電話を取った。「私離婚します。」「バカなことはやめなさい。」と彼は言った。私は自分に起きたことを手短に話したが、決して「あなたはあのホテルにいたでしょう?」とはきかなかったよ。彼も、「俺はあのホテルにいなかった。」とは決して言わなかった。ただ、「二度とあんな目に会いたくない。」とだけ言った。

Jさんが離婚に同意したので、私はさらに○○子に電話をして、「ねえ、うちの旦那と結婚してくれない?」ときいてみた。恐らくこんな電話をかけた人間なんて、私以外に存在しないだろうよ。「何であなたの問題を私に転嫁するんですか!」と彼女は激怒した。もしも彼女が笑って私をバカにしたら、私はあきらめただろう。彼女が激怒したので私は希望を持った。これはきっとJさんに対して何か感じているせいだと。

その後のJさんと私の関係は素晴らしかったよ。私たちは離婚を決めたが、子供たちのためにJさんの再婚が決まるまで同居することにした。私の両親はその決定に不満で、何でそんなにいい関係なのに離婚しなければならないのか、と怒った。けれどもそのいい関係は、私たちが離婚を決めてお互いの幸せを願うことができたからこそ、可能だったんだ。

月○とはその後も手紙を書いたりして連絡を取ろうとしたが、ことごとく拒絶された。誕生日の10月9日には彼の家のドアの前で一晩中粘ったけれど結局会えなかった。けれども、10月11日に私は彼を家の外になんとか引っ張り出すことに成功した。

彼は出てくるなり、私を思いきりなぐった。私は本当に死にそうになるほど殴られたよ。でも私には彼がどんなにつらいかわかっていたから、私を殴ることで彼が楽になるなら、殴られるだけ殴られようと思った。彼がひとしきり殴って落ち着いた後、私は静かに話し始めた。自分に起きたすべてのこと。自分自身の幸せを追求することがどんなに大切なことなのか(彼は修行僧みたいなところがあって、自分の幸せを追求するより、自分を厳しく律するほうが価値があると思うような人だったから)。私と彼が和解して調和することが、世界平和のためにどれほど重要なことであるか・・・
「私はあなたと一緒に新しい世の中を創りたかった。私の力だけでは足りないの。あなたの力が必要なのよ。」

彼は黙って聞いていた。

「お前が嫌いだ。」彼は言った。

「どうして?私が年を取っているから?」
彼は無言のまま、違う、という表情をした。

「私が結婚したから?」
彼は、そうだ、という表情をした。
「結婚したことは後悔してない。○明が私から生まれたかったのよ。」
彼は驚いた顔をした。
「帰れ。」と言いつつ、彼の目は「待ってくれ」と私に訴えていた。
「抱きしめてちょうだい。」
「嫌だ。」
「ならば手を握ってちょうだい。」
「お前が強要する限り、俺は何もしないぞ。帰れ。」
その言葉を聞いて私は少しほほえんだ。何かふたりの間に暗黙の了解が成立したようだった。私はさっと彼に背を向けると、後ろも見ないで帰ってきた。家にやっとたどり着くと、私は布団の中に倒れ込んだ。彼に殴られた傷が痛むたびに私は泣いた。三日三晩、身動きすることすらできなかったよ。

それが私にとって、彼を待つ長い長い日々の始まりだった。あした会えるかもしれないし、百年後かもしれなかった。何一つ約束されたものはなかった。

アメリカと北朝鮮の間にいわゆる「米朝合意」が成立したのは、その数日後のことだ。アメリカが北朝鮮に軽水炉型の原子力発電所を提供する代わりに、北朝鮮は核兵器の開発を断念する、というものだった。

でも彼を待つ日々は決して無駄なものではなかったよ。いろいろなことがあったからね。まず、その年の私の誕生日に○○子から電話があって、Jさんとのデートを承諾してくれた。Jさんと彼女は急速に仲良くなって、翌年の3月に結婚した。

そのとき○明が急にこんなことを言いだした。
「僕はとなりに引っ越したい。」
隣の空き家に子供たちがいれば私も○○子も安心だろうという気がして、私はふたりに聞いてみた。
「となりに住む気ある?」ふたりは快諾してくれた。それで、隣にJさん一家が4人で住むことになったのだが、そのとき○明は自分で自分のおもちゃを段ポールに詰め、後ろも見ないで家を出て行った。そのとき私は、ずいぶん冷たい子だなあ、と思ったんだが、あとで○明自身にそのときの気持ちをきいてみたところ、「だって僕があのとき後ろを振り向いたら、ママは僕を手放せなかったでしょう?」と言うではないか。子の心母知らずだね。なんと母親思いの子だろう。本当に涙が出てしまうよ。

ところが納得しなかったのが、私の両親だった。
「なぜ別れた婿が隣に住んでいるのか?」
「だって、子供のためにこれが最善の方法でしょう?」

けれどもその後しばらく子供の世話をする○○子の様子を見ていた母は、私にこう言った。
「あの人偉いねえ。あんたよりずっといい母親よ。」

でも、近所の人には何が起こっているのか、さっぱり理解できなかったようだ。
「ねえ、お宅の隣に、旦那さんとそっくりな人が引っ越してきたけど、あの人親戚?」
「いいえ、本人です。」
「ではあの女性は?」
「新しい奥さんです。」
「?????」

月○には長いこと何の連絡もしなかった。私は彼が私に「待ってくれ。」と言ったと信じていたので、何も言う必要はないと思ったんだ。けれども、南北朝鮮の状況が悪化したりすると、私は急に彼に手紙を書きたくなった。彼からは何の返事もなかったが、南北朝鮮の状況は好転する、というようなことが繰り返された。

私は大学で学生たちに、「本当の相手」に出会うことがどんなに大切なことかを説き続けた。私のように間違った結婚をして苦しんでほしくなかったからだ。多くの学生が私の話に興味を示し、個人的なことと世界の動きがどのように関わっているかについても少しずつ理解してくれるようになっていった。

学生は私によく質問したよ。「本当の相手に出会うためにはどうしたらいいのですか。」答えは、自分に正直になること、これに尽きるね。

1996年の10月にも南北朝鮮の関係が悪化したのだが、そのころ私は変な夢を毎晩のように見るようになった。当時の首相である橋本龍太郎が出てくるのだ。彼は私を抱きしめておいおい泣いた。とにかく寝るたびに出てくるので私はおかしくなりそうだったよ。それで、首相官邸にメールを送ってみた。もちろん、自分の身分も書いて。
「あなたの夢ばかり見るので、会いたいのですが・・・」

誰もこのメールに返事が来るとは予想しなかったようだが、数日後に総理大臣秘書官から返事が来た。
「首相は多忙のみぎりお会いできませんが、私でよければお話しを伺います。」

私はキャピタル東急ホテルで、その秘書官に会ったのだが、秘書官はフランスのシラク大統領のレセプションに出る時間を削って、40分ほど私に会ってくれた。

私はもちろん首相に抱きしめられた話はせずに、1994年6月13日にあった出来事について話した。そしてこう付け加えた。「世の中を動かしているのは、政治家ではありません。人々の意識なんですよ。」 

彼は大変驚いていた。そして、「1994年6月に戦争寸前まで行ったことは極秘事項で誰も知らないはずなのに、何であなたが知っているのか」と。彼はまた、こうも付け加えた。「あなたが橋本さんに会いたい理由は理解できる。私は歴代首相に仕えたが、南北朝鮮の問題を本当に真剣に考えているのは橋本さんだけだった。」そして、「首相に会えるかどうかは約束できないが、とにかく伝える」と言ってくれた。でもその後、首相からは何の連絡もなかったよ。

橋本首相は生まれた直後に実母を亡くし、継母に育てられた。だから彼は南北の離散家族の痛みが他人事ではなかったのだろう。また、私は当時自分の子供をすべて手放していて、言うなれば橋本さんの実母と同じ気持ちだった。そんなわけで、夢の中で私と橋本さんが共感してしまったのではないか、と思う。それとも、私は前世で本当に彼を生んだのかな?確かなことはわからないが、夢の中では本当に息子に抱きしめられたような気分だったよ。もしも、橋本さんが当時実母の夢を見ていたとしたら、私の話を聞いてどう思っただろうか。きっと私に会うのが怖かったに違いないね。

月○から連絡が来ることは決してなかったが、ごくたまにとても不思議な夢を見ることがあった。1996年の終わり頃見た夢はこうだった。

・・・彼の部屋に行った。床に私宛の手紙が大量に散乱している。その一つを開けてみたら、こう書いてあった。
「僕のことをあきらめないでください。」・・・

私は月○に手紙を書いた。

あきらめないよ。あきらめないし、あきらめたくないし、あきらめられない。そんなこと、わかっているはずじゃないか。

その後彼はどこかに引っ越して行方しれずになってしまった。私は彼に連絡するすべを失った。

けれども、大学で学生に接することは、私に勇気と自信を与えてくれた。私は彼らの悩みの解決の力になることができたから。私は自分が苦しんだ分だけ、人に勇気を与えられる人間になれたようだった。私は彼らが自分で問題を解決できるという自信を持つのを手助けすることができた。

学生の中には月○とよく似た問題を抱えた学生も多くいた。私は彼らが月○の分身であるように感じ、彼らを助けられることが嬉しかった。私が学生たちの問題解決の手助けができれば、同時にどこにいるかわからない月○の問題解決の助けにもなっているように思えたから。

一般的に女子学生はだいたい私をすぐに理解してくれたが、でもときどき気持ちが揺らぐことが多かった。逆に男子学生は私の話を聞いて反発する者も多かった。私は何人かの男子学生と殺し合いになりそうなほど、けんかしたこともある。でも、そんな学生と分かり合えたあとでは、彼らは揺るぎない私の味方になってくれたよ。

そんな学生のひとりは、私に月○さんの夢を見た、と言ってくれた。月○さんに会ったこともないのにね。
「最初の夢では、先生と一緒に出てきて、先生が、この人です、と紹介してとても嬉しそうでしたよ。2回目は先生の講演会の夢で、月○さんが僕の隣に座ったんです。そのとき僕はふと、後でこの人と大げんかしそうだ、と感じたんです。でも、先生がいるから大丈夫だ、と考え直した。でもそのあとで、いや、やっぱりやばい、と思いましたね。先生は奴の味方だ! 

先生、僕は月○さんがどんな状態かわかりますよ。ビンにコインをたくさん貯めた人が、それを出そうとしていきなりひっくり返したら出てこない!」

なんと的確な説明でしょう!

1997年の春には、Jさんの転勤が決まって、一家は遠くに引っ越した。私は完全にひとりになった。

1999年の8月には、北朝鮮は対話か孤立化かの岐路に立たされていた。私は彼に会わなければならないような気がした。私はそのころいろいろな手段を動員して彼の居場所は突き止めておいた(彼は大阪にある環境NGOで働いていた)のだが、行くきっかけがつかめなかった。

そのときある男子学生が私の部屋にやってきた。
「先生、僕が一緒に大阪に行ってあげよう。」
彼は交通費も自分で持つという。
「どうしてそんなに親切に私を助けてくれようとするの?」
「先生を助けられれば、自分の人生も変えられるような気がするんだよ。」
彼もやはり月○とよく似たところがある学生だった。私は彼と8月9日の新幹線に乗る約束をした。彼の家は平塚だったので、彼は新横浜から乗ると言った。

ところがなんと8月9日に、彼は新幹線に乗ってこなかった。私はパニックになってしまった。しばらく混乱した後で、ようやく気づいた。そうか、背中を押されたんだ、と。

大阪では、意外と簡単に月○に会うことができた。会うには会ったが、態度は相変わらず全くかたくなで、私はがっかりしてしまった。5年前から何一つ進歩してないじゃないか。でも、少しは収穫があったよ。彼が私の手紙を読んでいたことを確かめることができたんだ。「全部読んだよ」と、彼は不愉快そうにどなった。それから、彼の職場の同僚に私に協力してくれるという人も現れた。

けれども結局私は完全に拒絶されて、8月12日に家に帰ってくるしかなかった。新幹線の中で私は彼に泣きながら別れの手紙を書いたよ。「それであなたが本当に幸せなら、私はあなたをあきらめます。」という、彼への愛に溢れた本当に悲しい手紙だった。5年間待った末に、結局あきらめるしかなかったんだから。でも、涙を流しながら、私はふと何かよいエネルギーを感じたんだ。お盆には実家の東京に帰るという話を聞いていたので、私はその手紙を実家のポストに直接入れてきた。

翌日私の家に彼からの手紙が来た。二度と手紙も書くな、電話もするな、という内容だった。内容証明付きの、つまり、この手紙に違反したら、警察に訴えるぞ、というような脅しの手紙だ。こんな手紙を出した後で私の手紙を読んだらさぞかし後悔するだろうな、と思われた。それから数日間、私の家の電話が何度も鳴った。すべて無言電話だったが・・・

北朝鮮が対話路線に転換したことを発表したのは8月13日のことだった。私が彼から冷たい仕打ちを受けるたびに、北朝鮮がよい方に変化するようだ。どうもこれは彼が後悔することと関係があるらしい。でも、私にしてみればそれはとてもつらいことだよ。

その年の誕生日に私は40才になった。私はどうしても、彼の声が聞きたくて、その日に彼の家に電話した。もちろんすぐに切られてしまったが、 私は12時になるまではがんばるつもりで、何度も電話を鳴らし続けた。ついに彼が電話に出た。
「今日は私の誕生日なんだけど、一言おめでとうと言ってください。」
「聞いてませんよ。切りますよ。」
彼はその言葉ばかり繰り返した。けれども、決して電話を切ろうとしなかった。私は彼の言葉にお構いなく、自分の言いたいことを言いまくって、大声で泣いた。彼は黙って私の泣き声を聞いていたよ・・・

一緒に大阪に行ってやると言ってくれた学生は、誕生日のお祝いにと浜崎あゆみのCDをプレゼントしてくれた。そのころ浜崎あゆみは今ほど売れていなかったが、学生は「彼女は特別な使命を持った人です。」と言って、歌詞をじっくり聴くように私に求めた。彼女の歌を聴いて、私はそれらの歌詞がまるで月○から私に宛てたメッセージのように感じたよ。

クリスマスイブにも電話をしてみたが、激怒して切られてしまった。でも私は何かいい変化を感じていたんだ。

その変化を察したのか、2000年の春になって、突然○明が私のところに帰ってきたいと言いだした。正月に○明と一緒に体験乗馬をしたのがきっかけで、私はXXXXに入会することになった。

2000年3月、私は馬が暴走してかなりひどい落馬をした。落馬というのは困ったもので、頭の中や体の中がどうなっているかわからないから、時としてとても不安になることがある。私はとても体調が悪く、気分がすぐれなかったので、彼にすがりたくて彼の職場に電話したらいないと言う。私が今にも死にそうな気がしてパニックだったので、母と○○子さんにも頼んで彼の職場に電話をしてもらったが、いずれも居留守を使われた。

ところが、夜の10時過ぎになって、電話がかかってきた。
「もしもし、月○と申しますが、昼間電話をいただいたようですが、どんなご用件でしょうか。」

私の声を聞いただけですぐ電話を切ってしまう彼が、私の声に気づかないはずはない。私が誰かわからないふりをして電話をしているのだ。私は、
「あなたからの電話をもらって元気になった。ありがとう。」
と言ったが、彼は相変わらず何のことかわからない、というふりをし続けた。
「では、特に用がないようなので、切ります。」
多分私のことが心配になって電話をしたのだが、心配しているということをさとられたくなくて、あんな電話をしてきたんだろう。でも、彼から電話がかかってきたということはとても大きな変化だった。(けれどもこの日を境に彼の自宅の電話が取り外された。私は彼の家に直接連絡する手段を失った。)彼が私のことを心配してくれているということがわかって、私は急に元気になった。体なんて、本当に心次第でどうにでもなるものだね。あとで気づいたのだが、これは3月14日のホワイトデーの出来事だった。

彼は私が本当に死にそうになったりしないと動かない人なのだ。だからそういう意味では馬も私たちのために一役買ってくれたというわけだ。馬は自然の動物だから、きっと天の意志で動くんだろう。

その後私はとてもよい変化を感じ続けて、きっと何かいいことが起こると思っていたのだが、案の定、しばらくして、6月に南北首脳会談が開催されると発表された。私はもうすぐ彼に会える、と本当に期待したんだが・・・

確かに6月13日の南北会談以降、事態は劇的に変化したが、それでもいろいろなことは一進一退を続けた。離散家族の再会事業も一度に200人ずつ会うことができるだけで、これでは一千万人が会える前にみんな死んでしまうではないか。

そのころ彼の職場のホームページを見つけたので、メールを送ってみることにした。匿名で一回返事があったので、私はそれが彼からの返事だと解釈した。彼の職場の環境NGOもずいぶん問題の多いところで、私の目から見るとかなり偽善的な団体のように思われ、それに対する意見もしばしば書いたりして、それから私の彼に対する連絡手段はもっぱらメールになった。

2001年の春には、何かすべてのことが行き詰まっているように感じられたので、私はかなり過激なメールを送り続けたんだが、私にとって一番つらかったのは、彼がメールを読んでいるのかどうかわからないことだった。私はどうしてもそれが知りたいと彼に訴えたよ。

2001年3月15日には、南北朝鮮の離散家族の手紙の交換、というイベントがあった。一千万人のうちのたったの300人しか手紙を送れないし、返事も受け取れないというひどいものだったが、私はその日に彼から何か連絡があるのではないか、と期待した。

その日、確かに彼からの反応があったよ。なんと、茨城県警から刑事ふたりがストーカー条例違反の警告書を持って現れたんだ。警告書には私の送ったメールの内容が書かれていて、これによって月○さんが「生命の危険」を感じるので、直ちにメールを送るのをやめないと告訴する、と書いてあった。

私は刑事に言った。
「どうして彼の言い分だけ聞いてこんなものを持ってくるのですか。私の言い分も聞くべきです。」

刑事たちは私の長い話を聞いた後、「あなたの言うことは、すべては理解できなかったけれど、真面目に聞きました。でも、どうかもうメールは送らないでください。私たちはあなたが本当にいい先生だと思いますから、あなたに大学をクビになってほしくないのです。」と言った。私は「約束できません。」と答えたよ。

私は彼のしたことにとても腹が立ったが、そのとき急にこう思った。待てよ、そうか、これは彼がメールを読んでいるということを私に教えてくれたのだな、と。それで私は彼にこんなメール送った。「あなたがメールを読んでいることがわかって嬉しかった。ありがとう。追伸:告訴するならご自由にどうぞ。」それからもますます過激なメールを送り続けたが、告訴状はついに来なかったよ。

その頃私はとてもいいエネルギーを感じていた。すると2001年のゴールデンウイークに○明が突然寝台列車に乗って大阪に行きたいと言いだした。○明は鉄道マニアなのだ。大阪?まさか彼に会いに行くんじゃあるまいな。私は一応メールで彼に4月30日の朝大阪駅に着くと知らせておいた。もしかしたら会えるんじゃないか、というような気がして。

けれども、期待に反して、彼は現れなかった。私はどうしようか迷ったが、5月1日の朝、急に彼の職場に行きたくなって、○明と行くことにした。

事務所に行くと、彼はいなかった。別の男が応対に出て、私が月○さんに会いたいと言うと、「あなた塩田さんでしょう?迷惑だから帰ってください。」と言われてしまった。私は、「月○さんがいなくても、私はここの団体がやっていることに意見があるので、それを言わせてください。」と話し始めた。するとその男は、ここに居座る気なら住居不法侵入で警察を呼びますよ、と言う。なんという態度だろう! まったく月○にそっくりだね。ホームページには誰でも気軽に遊びに来てくださいと書いてあるのに! 「警察を呼びたければご自由に。」と言うと、本当に警察がやってきた。私はただ静かに話をしていただけなのに、私は警察官に引きずり出された。それも○明の見ている前で!

私はパトカーで曾根崎警察署に連行された。少し待っていると、なんと大阪府警の本部長がやってきた。府警本部長って一番偉い人でしょ?なんでそんな人が来たのかわからないが、とにかく私は府警本部長と刑事ふたりに囲まれて尋問を受ける羽目になった。

「大阪に何をしに来たのか?」

「電車に乗るために。」

「????」

彼らは私が月○さんとひともんちゃく起こしに来たと思ったらしい。私の言い分も聞けと言ったら、彼らが聞きましょうと言うので、また最初から全部話した。すると、驚いたことに、府警本部長がこう言ったのだ。
「世の中の人がすべて本当の相手と結婚したらこの世は平和になると言うあなたの意見には賛同できる。」
「私は立場上北朝鮮の動向を把握しているが、あなたの言った時期にそのようなことが起きたことは承知している。」

は?この人私の味方かな?
私は「私が動くと北朝鮮が必ず動くから、また何か起きますよ。」と言った。結局彼らは私の話を全部聞き終わってから、
「僕ら塩田さんが好きになっちゃったよ。お昼をごちそうするから、大阪城でも見物して帰りなさい。」
と言って、○明と一緒に警察の車で大阪城まで連れて行ってくれたよ。

この出来事は笑い話だが、私はとても不愉快だった。でも家に帰ってしばらくしてから新聞を見て、私はあきれてものが言えなかった。私が大阪で捕まったその日に、北朝鮮の金正日の息子が成田空港で捕まったのだ。

その後で大学に行ったとき、私が大阪に行ったことを知っていた学生が私にきいた。「先生、何かあったんじゃないですか。」彼女は金正日の息子が捕まったニュースを見て、私にも何かあったに違いない、と思ったそうだ。

ちょっと退屈だったかもしれないが、長々とこんな話を書いたのは、たったひとつのことをあなたにわかってもらいたかったからなんだよ。私が動けば表裏一体の月○が動き、月○が動けば北朝鮮が動く、つまり、私が動けば北朝鮮が動く、ということだ。

その後同時多発テロやアフガン戦争、○明がニュージーランドに行ったり、父が亡くなったりといろいろなことがあったが、少し飛ばして今年の夏の話をしよう。

あなたの夢を見たのは8月のはじめだったと思う。そのときも私は行き詰まりを感じていて、何か突破口はないかと思っていた。私の夢の中であなたはあなたの本当の相手の目の前まで行ったよね。私の彼は私に会いに来る勇気すらないから、あなたはとても勇気のある人だと思ったよ。だからひょっとしたらあなたが何か突破口を開いてくれるかもしれない、と思った。

夢の話をあなたにしたかったのだが、いきなりするのは何ともおかしいので、チャンスを探していたよ。バスの中でいろいろ話をする機会があった後、あなたがよく夢に出てくるようになった。とても驚いたことに、夢の中で私とあなたはとても親しげに深い話をしていた。自分があなたをとんでもなく好きだということに気がついて私はあわてた。私はもちろん夢の中で見たあなたの本当の相手を裏切る気はさらさらないし、あなたが私の本当の相手ではないこともわかっているのだが、そのころから私の中から月○はどこかに行ってしまって、私はあなたに強く引かれるようになった。それで私はあなたに手紙を書いたんだ。

○明に話をしたら、はじめは浮気するなと怒ったよ。でも、私が書いた手紙を見せたら、「これはいい手紙だから、是非渡せ。」と言うんだ。それで私はあなたに手紙を渡すことにしたが、それがどうしようもなく怖いんだよ。月○以外にこんな怖さを感じたのは初めてだった。私はいつも、恐怖を感じたら、逃げずにむしろそちらに進む方が正しいと信じているので、手紙を渡さなければならないと思うのだが、怖くてできそうにない。それで、○明に代わりに渡してくれと言ったら、そんなことは自分でしろと怒られた。「こんなことで怖がっているようでは、本命に会えないぞ。」

その言葉で観念して私は手紙をあなたに渡す覚悟を決めた。それが8月29日だった。あいにくあなたはいなくて、その日は手紙を渡すことができなかったんだが、その直後に「小泉首相の訪朝が決まった」というニュースが飛び込んできた。私以外にもその日覚悟を決めた人がいたというわけだ。

私は自分の心があなたに対して開いていけば、それに比例して北朝鮮も開いていくのだということを知った。つまりあなたも北朝鮮を動かしているひとりだというわけなんだよ。あなたがどういう行動を取るかによって、世界が変わるんだ。

9月8日に小淵沢に行ったよね。ひまだったから、そこで泊まったペンションのおじさんにも、こんな話をしてしまったよ。おじさんは興味を持って話を聞いてくれた。

その後、私はあなたがアジア大会に行ってしまったのを知らなかった。あなたにしばらく会えないと知ったときは本当にショックだった。寂しくて泣いてしまったよ。誰かに会いたくて泣いたのなんて、本当に久しぶりだった。

10月14日にアジア大会が終わって、次の日に拉致された5人が帰ってきたが、その頃から私は病気になってしまった。それまで自分の中に満ちていたエネルギーが枯渇していくのを感じるのだ。月○が私に対して心を閉じてしまったのだと思った。彼からのエネルギーが途絶えると私は本当に死んでしまいそうになる。私は彼にメールであなたのことを好きになってしまったことを正直に書いたから、彼は心配になったのかもしれない。とにかく彼が私を信頼してくれないと、私は死にそうになってしまうので、私は彼に死んでしまいそうだから助けてくれと何度もメールで訴えた。私を野放しにしておいたらあなたのところに行ってしまいそうだし、かといって信じられずに捕まえようとすれば私が死んでしまうというのだから、彼も困ったことだろう。

体調はよくなったり悪くなったりを繰り返したが、一番ひどかったのは10月21日だった。私は一晩中つらい、つらいと彼にメールを打ち続けたよ。

10月22日、私は朝から悲しくてたくさん泣いた。夕方頃、テレビで拉致された人の家族が、本人の意思にかかわらず絶対返しません、と言うのを聞いて、なぜか急に楽になった。そして、その日の夜、こんな夢を見た。

月○との結婚式の日取りが決まった。私は、2度目の結婚なので、結婚式はいいと言ったら、誰かが、あなたと彼の結婚式なら、祝福してくれる人はたくさんいるはずだから、式を挙げた方がいい、というので、そうすることにした。でも、準備は全部私がすることになっていて、彼は当日来るという(ここがみそだね)。それから、同時に○明にニュージーランドから入学許可が来る夢も見た。私が自分の居場所に帰るときまた、○明も自分の居場所に帰れるということなのだろう。

その日から私は急に元気になった。その後、XXXXに行った日に、久しぶりにあなたに会えたね。あなたが22日の夜に帰ってきたということを聞いて私は驚いた。やっぱりあなたもつながっていたんだな。後で聞いた話だが、拉致された蓮池さんが日本に残ることを決意したのも、22日の夜だったらしい。

それからまた私の関心はあなたに戻ってしまった。あなたの夢をいろいろ見たよ。

あなたの部屋の右端にあなたの布団が敷いてあって、真ん中に知らない人の布団があって、左端にあなたが私の布団を敷いたのだ。それで、私があなたに、「同じ部屋に寝るのはちょっとまずいんじゃない?」と言う夢。

この話をある学生にしたら、彼女がこう言った。
「真ん中に別の人の布団があったって、言ったよね。それって月○さんのじゃない?だからその部屋に寝ればいいんだよ。」

なるほど、私があなたに近づいていけば、そこで月○に会うということなのか。同じようにあなたも私に近づいてくればそこであなたの本当の相手に会うというわけだ。要するに、今引力を感じる方に素直に行けばいいというわけね。

それで私はあなたにラブレターを書いてみたのだが、今度こそ、ラブレターです、と言って渡そうと思ったのに、やっぱりうろたえて「たいしたものではありません。」などと言ってしまったよ。

11月8日だったか、あなたに抱きしめられる夢を見た。それはとてもリアルな夢で、目が覚めてからもその感触をはっきり覚えていた。あなたはとても力強く何度も抱きしめてくれたので、私はとてもうれしくてありがたくて大声を上げて泣いてしまったよ。そして、思わずこう口走ってしまった。「あなたと恋人になりたかった!」と。

私が「私はH.K.さんのことがものすごく好きらしい。もしも今万が一プロポーズされたら、私は断れないよ。」と言ったら、○明は、「これはH.K.さんとかかあの結婚式に月○さんが乱入するパターンかな」と言った。月○はあまりにも臆病なので、私を本当に失ってしまう寸前にならないと動かないから、私とあなたが結婚してしまうと脅迫する必要があるというわけだ。私が「でも、それではあまりにもH.K.さんに失礼ではないか。」と言うと、○明は「大丈夫だよ、彼の本命も一緒に乱入するから! つまり二組の結婚式が同時に行われるというわけ! いや、これは冗談。」

夢の中のあなたはとても好意的だったけど、実際のあなたは親しげに話してくれたり、冷たかったりといろいろだったね。私が落馬した日はあなたはとてもそっけなかった。もしかしたら、私は無意識のうちにあなたの気を引こうとして落馬したのかもしれない。でもあなたは気づいてすらくれなかった。というわけで、実際にあなたが私のことをどう思っているのかはよくわからない・・・

12月の初めごろ雪の降った日に、私が乗ったタクシーの運転手さんがこんな話をしてくれた。

「何年か前に雪で凍った利根川の土手を走っていたんですが、ハンドルもブレーキも利かなくなって、今にも土手下に転げ落ちそうになるんです。そのとき僕はハンドルから手を放し、ブレーキからも足を放してすべてを天に任せたんですよ。そうしたら、車が自然に土手の上の方にカーブを切って止まったんです。」
「ずいぶん勇気のある方ですね。普通の人にはとてもそんなことはできませんよ。」
「お客さん、ブレーキ踏んじゃだめですよ。ハンドル切っちゃだめですよ。ブレーキを踏んだらかえって怪我します。」
運転手さんは何度も私にそう言った。

これは単なる雪道の話ではないな、と私は思った。今私の置かれている状況そのものではないか。私はブレーキもハンドルも利かずにあなたの方に突入しようとしているが、きっと、ここでブレーキを踏んでもいけないし、ハンドルも切ってはいけないとうことなのだろう。そうすれば自然に車が月○の方に曲がって行くということだ。ここであわててブレーキを踏んだりすればかえってみんなを傷つけることになってしまう。

今、米朝合意が崩壊した、とかいうニュースが報道されているが、私にはなぜそうなったのかよく理解できる。1994年の米朝合意はそもそも私が月○を待つという暗黙の了解だった。でも今、私の心は月○ではない人の方に揺れているんだから。

朝鮮半島では、さらに大きな変化が起きている。12月14日に南北を隔てていた非武装地帯に道路が二本貫通し、その幅の地雷がすべて撤去されたんだ。

南北に別れた離散家族は、どんなにこの道を通って行きたいと思っていることだろう。物理的には十分可能なことだ。ただ歩いて行きさえすればいいことなのだから。それを妨げているのは、ただ「行ってはいけない」という考えだけだ。

この問題を理性的に解決するのは不可能だ。理性はいつもこう要求する。段階的に、順を追って、規則にのっとって、と。でもそんなことをしていたら、毎年数百人しか会えないことになり、一千万もの離散家族のほとんどが死ぬまでつらい思いをし続けることになる。本当の変化は、理性が感情を抑えていては決して起こすことはできないんだよ。感情があふれ出すことを理性が許して初めて、すべてが解決するのだと思う。

あなたと口論して感じたことなんだが、あなたは本当に理性的な人だね。月○によく似ているよ。それからあなたは北朝鮮にもよく似ている。「自分の信念を曲げるくらいなら死んだ方がましだ。」と言ってたよね。それはまさに、自分の国民が何百万人飢え死にしても、自分の国の体制を死守する、と言っている北朝鮮とそっくりだよ。

私はあなたに本当に幸せになってほしい。信念よりも、自分の幸せを大切にしてほしいんだ。そのためにはどうか自分に正直になってほしい。それが北朝鮮で飢え死にしそうなっている子供たちを救うことになるのだし、世界が戦争へと向かうのをくい止める力になるのだから。

私があなたに願うことは、幸せなってほしい、ただそれだけだよ。あなたが幸せになれば、世界も幸せになり、私も幸せになれるのだから。

追記

月○は月で、私は今日子だから太陽だよね。つまり陰と陽というわけだ。私の息子は○明と和で、名前をつなげれば月と日が和す、となる。私はそんなことを考えて子供の名前を付けたわけではないんだが、偶然そうなってしまった。だから息子たちは月と日を調和させるために生まれてきたんだと思う。

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